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現代の小説あれこれ

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さいきん、ドキュメンタリー映画の製作に頭をひねっているので、あまり小説を読まない期間が続きました。

で、ちょっと気分を変えようと、久しぶりに読んだ長編がこれ。

久米宏がラジオで推薦していたので、ふだんはあまり手に取らないベストセラーの単行本を書店で購入しました。

塩田武士。『罪の声』です。 

週刊文春ミステリーベストテンで、2016年の1位に輝いた作品。

 結論からいうと、ぐいぐい読ませる作者の筆力は認めるけれども、読後感はあまりよくない。でも、実際ほぼ一晩で読み切ったのです。面白かったのです。なのに、なにか物足りない。

これは、説明が難しいですね。なにが物足りないのか。

グリコ森永事件を扱ったこの小説。作家は、犯人グループを自らの手でぜんぶ創作し、実際の事件をそのままなぞって、架空の犯人たちをその中にちりばめます。 

問題は、犯人たち(主に主犯の男)の動機なのかな。それがいかにも薄っぺらい。

え? そんな理由なんすか……。と思ってしまいます。

これは作者の人間観や社会に対する洞察力の問題なのか。でも、そんなこと、えらそーにわたしから言われてもね。知るかってハナシですけども、そんな気もするのです。

で、話は飛躍しますけども、上記の読書体験が、さいきんの小説を書こうとする人々の状況について、なにごとかを連想させるのです。

わたしは、作家塩見鮮一郎氏がやっている「文藝トーク小屋@新宿」という、いうなれば小説教室に通っています。 以前は、神田にあった「文藝学校」という学校に属していた塩見クラスから、昨年4月に新宿で独立した形です。

そこに集まる若い書き手は、ラノベ、エンタメ志向がほぼ百パーセントですね。別にラノベ、エンタメが悪いとは言いませんが、ほぼ百パーとはどういうこっちゃ?? と思うのです。それだけでなく、わたしと同年輩、いやもっと上の書き手にも、エンタメ志向の人が多い。これもサブカル全盛の時代の影響でしょうね。

文学がある種の役割を担っていた時代が、とっくのとうに終わっていることは自覚していましたが、ではそういう人々はどこに流れたのか。これも結論から言いますと、いたのです。ドキュメンタリーの世界に。

少なくとも、一昨年くらいからわたしがのぞき見たドキュメンタリーの世界では、身を切るように我が身をさらし、表現してやろうと目論む人たちがゴロゴロいました。社会にもの申してやろうと、カメラを手に、街に出る。人を撮る。声を聞く。原発を取材したり、沖縄基地問題に切り込んだり。障害者、性差別、ブラック企業などの労働問題、などなど。

あるいは、自分をさらけ出すことをいとわない表現者にも会いました。障害者である「わたし」とか、コンプレックスに悩む「わたし」などです。

ふむふむ。むかし文学、いまドキュメンタリーか。などと思ったりもします。

しかし。ドキュメンタリストの先輩たちは、それでも後輩たちに不服なようで。

先日、高円寺ドキュメンタリーフェス に行って、コンペティション部門の表彰式を観客席から見ていました。そこに登場したのは、こわもて審査員の代表、足立正生氏。女性ではヤン・ヨンヒ氏。ふたりとも厳しかったですねぇ。入賞作品をそこまで酷評するかと思いました。

記憶に残った言葉は、正確ではないかもしれませんが、「対象に迫り切れていない、なれ合いになっている」ということ。批評性の有無についても、云々していた気がします。

これは小説を書く人間にも言えることですね。ただ、ドキュメンタリーは、少なくとも作り手が対象と向き合って初めて成り立つわけで、NHKの報道のようなものはドキュメンタリーとは言えません。誰が主体で報道しているのか、ハナから表明しているのがドキュメンタリー。なんだかわからん、客観という視点に逃げの一手を打つのがNHKです。

小説を書くときも、一人称の作品ではなくても、文中のどこかに、作者の主体が表れるものだと思います。それを避けようとすると、NHKのような小説になるのかな。

で、ひるがえって、冒頭の小説『罪の声』。ここにも作者の主体性は出ているのだけど、高円寺ドキュフェスの審査員、足立正生氏やヤン・ヨンヒ氏の酷評のようなものを、わたしが読後、感じたのかもしれません。

こんな犯人像ではないだろう、と。こんな動機で、あれだけの事件を起こすなんて、とうてい納得できないよ、と。

そんだもんで、ふと思い出した、10年以上むかしに読んだ、もうひとつのグリコ森永事件を題材にした小説『レディ・ジョーカー』を、本棚から引っ張り出して、読み始めたのでした。

 お。さすが髙村薫。ちょっと冗長な気もしますが、筆力以上に違うものがありますね。まだ文庫の上巻半分ほどですけど、そう思います。

嗚呼。読書は快楽だ。

いや、けっして映画から逃げる口実にしているわけではありませんよ……。(^_^;)

 

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8・15九段下から昭和16年の松本竣介へ

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松本竣介「議事堂のある風景」1942年

 

 8月15日の靖国神社周辺、九段下交差点付近の喧騒から一週間近くが経ちましたが、いまだ雑多な言葉が耳の奥にこだましている感じです。

それはスピーカーで増幅された耳汚い怒声や罵声だけでなく、「美しい」「誇り」「感謝」などという透明な重力のない言葉の群れだったり、「海ゆかば」の煽動的ですらあるメロディと詞であったり、 さらには、その後のオリンピックの報道の中で語られる「絶対に負けられない」とか「家族との絆」とか「諦めない強い意志」とか、まあいろいろです。

この夏は、ひときわ言葉の多い、言語過剰の夏だったように思われます。まだ夏は終わってないですけど。

だからなのか。

ふと、ひとむかし前にずいぶんとこだわって、彼の画集などを集めた、静寂の画家松本竣介を思い出したのかもしれません。 

彼の絵に初めて出会ったのは、これも九段下からほど近い、東京国立近代美術館でした。たしか「戦争と絵画」といった特別展だったと思います。15年ほど前か。藤田嗣次の見上げるほど大きな戦争絵画「ノモンハン」に圧倒された展覧会でした。

これほどの表現力と情熱でもってノモンハン戦争を賛美した藤田は、ノモンハン戦争は大敗北を喫したにも関わらず、あたかも日本軍の大勝利といった絵をいくつも描いたのです。絵画だけを見ていると、脳内を高らかに軍歌が鳴り響き、「ロスケなんざ、やっちまえ!」という気分に知らず知らずなってしまう。そんな大パノラマでした。

なのに、その横にこれまた藤田の「アッツ島玉砕」の大絵画が、静かに訴えかけていたように記憶しますが、これは間違いで、他の美術館で観たのを合成して覚えているのかもしれません。この絵は、ノモンハンの大政翼賛絵画とはまるで違い、愚かな人間の業としての戦争と悲惨を、これでもかとキャンパスに刻みつけるような迫力をもっていて、わずか5、6年のあいだに、いったいどういう変化があったのだろうと、考えさせられる作品です。

いずれにしろ、わたしは少々食傷気味で、げんなりしながら他の絵を流し見していたのです。

そして、ある自画像の前で、ハタと立ち止まりました。

それが、松本竣介のものでした。  

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こちらはわりと有名ですね。「立てる像」(1942年)

すでに泥沼の日中戦争から真珠湾攻撃の日米開戦を経て、翌昭和17年の自画像です。 

 この時期の松本竣介の作品は、静寂に包まれています。

これは、例えば松本の友人だった麻生三郎の自画像(1937年)と比較するとよくわかりますね。

というのも、そのときこの絵もすぐとなりに掲げてあって、それはそれで感動したのです。

かっとにらみつけた目と少し開いた唇。全体に赤みを帯びた顔や髪。何をかを言わんとしている若者の内面と葛藤がよく出ています。そのときはたぶん、こちらのほうにより強く魅かれたのかもしれません。

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でも、今はやっぱり松本竣介の静寂さの方に、なんだか安らぎすら覚えます。トシをとったということですかね。

 

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市内風景 1941年

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 ごみ捨て場付近 1942年

 

時代は戦争にどっぷり浸かっていて、世のなかには勇ましい言葉が氾濫している。ちょうど今年の8・15靖国神社、九段下近辺のように。耳の聞こえない松本竣介にさえも、届いてしまう時代の声。喧騒。罵声。怒号。あるいは、「君を守るために死にゆかん」といったような、あまりに「美しい」言葉の群れ。

それらを遮断し、「画家は腹の底までしみ込んだ肉体化した絵しか描けない」といって、ひたすら静寂に包まれた風景画や自画像を描き続けた松本竣介。

彼が、昭和16年の日米開戦直前に、「生きてゐる画家」という文章を雑誌に寄稿したことは有名な話ですね。石川達三の「生きてゐる兵隊」 (1938年)を意識して書かれたもので、松本を「抵抗の画家」と呼ばしめる元となった文章です。

これについては様々な議論があるようですが、ここには書きません。

わたしにはこの「生きてゐる画家」というタイトルですぐさま想起するのは、「生きている英霊」 のことです。ノモンハン戦争で捕虜になり、ソ連領内で生きることを選択した「英霊」たち。彼らのことはほとんど何も明らかにされないまま、今年で77年が経とうとしている。

私家版ですが、山梨の楠裕次さんという方が『私説 あゝノモンハン 生きている「英霊」を想う……』という本を自費出版されています。わたしは偶然この本を古本市場で見つけ、以来「生きている英霊」という言葉に釘づけになってしまいました。

わたしには、松本竣介の静寂さのなかから、言葉が立ち上がってくるように思えてならない。

それは声なき声であって、この「生きている英霊」の声、言葉でもあるわけですね。

 そういう言葉に耳を傾けたい。 

そういう言葉を刻みたい。

静寂のなかで。

と、まあ8月15日から一週間たった今日になって、しみじみと思うわけであります。

ちょっとカッコつけすぎましたかね。。

映画製作にのぞんでの、決意表明でもあるのですが。 

 

 

 

 

 

 


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8月15日 東京九段下の風景

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もう五日前ですが、敗戦記念の日に、靖国神社に行ってきました。

いよいよドキュメンタリー映画の撮影に入っていくわけですが、とにかく8月15日の風景だけはビデオに収めておこうというわけです。 

境内を汗みずくで歩いていると、正午になりました。

サイレンと黙祷のあと、天皇の短い演説。外を歩いていても、境内にその言葉が響きわたります。

近頃、引退を事実上宣言したその人は、「深い反省」という言葉を発し、靖国に集まる人々はしきりに「英霊に感謝し、日本人の誇りを取り戻せ!」と連呼していました。 

軍歌を愉しそうに歌っているグループもいましたね。

若者が軍服を着て国旗を掲げています。おそらく二十代の前半かな。その向こうにかなり高齢の男性がぼろぼろの軍服を着て立っていて、若者が「あの方はホンモノの予科練です」と、少し気恥ずかしそうに語っていたのが印象的です。 

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「海ゆかば」を歌っている人をあちこちに見かけます。ひとり口ずさんだり、数人で歌ったり。茶髪の兄ちゃんのTシャツにプリントされていたり。

 海ゆかば 水漬く屍

 山ゆかば 草むす屍 

 大君の辺にこそ 死なめ かへりみはせじ

こんな歌です。みな心、うちふるわせて、この歌をうたう。 

 

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この行列は右翼の街宣とはちがい、整然と行儀よく、九段の街並みを歩いていました。

「美しい日本をありがとう!」などと声援がかかります。海ゆかばを歌いながら拍手を送るご婦人もいました。

5時ころからは、靖国神社に「反天皇制」を掲げデモる「反天連」と、そのカウンター(在特会系の団体)の激しい罵声が、スピーカーで増幅されてぐわんんぐわんと響きました。 

「死ね!」「朝鮮人出ていけ!」「ケーサツは腰のものを抜いて打ち殺せ!」

などと、二時間以上がなっていましたね。 

えげつない言葉を機関銃のように連射するのですが、まわりもみんな「そうだそうだ」とうなづいている。

天皇制に反対する人間はそのくらいの言葉を投げつけられてもかまわない。そういう暗黙の諒解があるようです。

午前中から靖国にいたので、計7時間ほど、九段下周辺をうろついたことになります。人人人でぎゅうぎゅうの遊就館も時間をかけて見たし。

家に帰りつくと、どっと疲れました。

でも、すぐにブログに書かなかったのは、疲れたのもあったけど、しばらくその「意味」を、考えてみようと思ったのです。 

言葉について。

15日に九段下周辺で発せられた多くの言葉、天皇の発した言葉をふくむ、多くの言の葉(ことには)について。

そうしているうちに、ふとまったく予期していなかったイメージが頭に浮かんできました。

中学生で聴力を失った画家、松本竣介です。 

 

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『全身小説家』というドキュメンタリー映画と「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」

一ヶ月ほど前の話ですが、ツタヤで借りて、『全身小説家』というドキュメンタリー映画を観ました。

それがこれ。 

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 ツタヤでは、中身しか貸さないので、パッケージは見ませんでした。

今回アマゾンで検索し画像を見てびっくり。

「嘘もつき終わったので……、」

 というコピー(なんちゅうコピーじゃ!)と、作家井上光晴の、ひょいと手を挙げたカットです。

これでは主演の作家井上光晴が、稀代の大ウソつき作家ということになってしまいます。(そういう面がなきにしもあらずではありますが、それを揶揄するのが目的ではなかったはず)

 しかも、この映画、撮影の初期の段階で作家のガンが見つかり、当初の予定は大幅に変更、作家の最晩年、その闘病から死までをドキュメントする内容になっています。 だからこのカットは、闘病の果て、最後の年の正月に年始のあいさつに来た人たちを、玄関先で見送る作家の姿なのです。それに「嘘もつき終わったので……、」というコピー。

う~ん。どうなんだろう。考え込んでしまいます。 

もちろん、映画はそればかりではなく、作家の人生、生い立ち、家族、作品等、様々な角度で切り込んでいき、それが「全身小説家」というすばらしいタイトルになって表現されました。

 そう。井上光晴は全身がこれ、小説家なのです。嘘つきとは違う。

いや、嘘つきでもいい。そんなことよりも、作家の生きてきた昭和史、その中で書かれてきた作品群。その時代や土地の背景。そういったものをもっと扱ってもよかったのではないでしょうか。

それに地方地方で開かれていた「文学伝習所」という活動もある。それは九州から北海道、山形、長野、群馬などに拡がっていきました。

わたしの参加している作家塩見鮮一郎の「文藝トーク小屋@新宿」のようなものです。

井上光晴は伝習所を各地で開きましたが、塩見鮮一郎は、東中野、神田、新宿と場所や形態を変えてはいますが、ずっと東京で40年以上この活動を続けていますね。

それはともかく、井上光晴の活動は多彩で幅広く、執筆活動も旺盛でした。それを「嘘つき」のひとことですますのはどうなんでしょうか。

伝習所で女性を口説きまくったとか、モテ男だったとか、映画に出て来ますし、それもまた作家の一面ではあるので面白いですが、当事者はどうあれ、われわれには些末なことのようにも思います。

それでも「全身小説家」というタイトルは秀逸ですね。

わたしは、「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」という短いドキュメンタリー試作品を作りましたが、タイトルにもう少しインパクトが欲しい。

ひとことでその作家を表現するような言葉ってなかなかみつかりませんね。

ならば、「ん?なんだこのことば?」と思わせておいて、その謎解きを映画本編でする、という戦略のつもりでしたが、試作品ではうまくいきませんでした。

今後、長編を作っていく予定ですので、そこらへんをしっかり表現したいと思います。

 

 

 

 

 

 


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伝わらないことへの恐怖

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内田樹の本、『街場の文体論』を読んでいて、ふと考えました。

ものを書いたり、最近は短いドキュメンタリー映画を創ったりして、思うことがあります。

それは、「これは誰に向けて書いて(撮って)いるのか」という問いかけについてです。

 この話って、小説創作の合評の場でもよく出てくる問いで、表現されたもの、表現者に対して浴びせられる、ある種の「正当性」を帯びた問いかけなんですね。

これを問われた場合、表現者は明確に「同世代の女性」とか「中年の男性」とか、きちんと答えられなければならない。 間違っても、「特に読者(観客)は想定していません」などと答えてはいけない。

 なぜか。

それは、伝わらない表現は、表現ではないという強迫観念(あえてそう言いますけど)が、表現者に内面化されているからだと思うのです。

今日、ここで告白しますが、わたしはものを書くとき、ある一定の幅の読者(年齢、性別、地域性その他)を想定しません。基本的には。もちろん書くものの種類によっては、そういうことも必要になってくるでしょうが、基本的にはしません。

この前創った短いドキュメンタリー映画もそうでした。つい最近書いた「私小説評伝」というわけのわからないジャンルの《小説》も、読者は想定していません。

これを書くと、もっとドン引きかもしれませんが、そもそも読者を想定する必要がどうしてあるのか、わたしには正直わかりません。

おそらく、いろんな場面でわたしが人と対立するのは、ここですね。

読者なんか知るか、わしは書きたいものを書き、撮りたいものを撮る。みたいに思われている。

 ただし、ひと言付け加えますが、わたしは井上ひさしの名言、

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」

に激しく共感するようになってから、あまり難解な表現は避けるようにしています。若い頃はそういう文体に憧れた時期もありましたが、いまはまったくない。

でも、読者は想定しない。っていうか、想定する意味がわからない。

最近、映画作りのWSに参加したとき、「ドキュメンタリーの企画書を書くときは、ある一人の誰かに向けて書くラブレターのようにして書いた方が(企画が)通る」と言われました。

ふむふむ。それはなかなか言い得て妙、です。

言っていることと矛盾するようですが、それは非常に理解できます。一人の読者への情熱のラブレター。

なんだ、読者を想定してるじゃねえか!! とツッコまれそうですね。

それはこういうことです。結局、思いの大きさや熱量の問題かと。あなたにこの恋心を分かって欲しいという熱烈な感情、思い。恋は残酷なので、それでもフラれることが多いでしょうが、思いの大きさや熱さは、相手に伝わっているでしょう。おそらく。

小説や映画もそうかな、と。相手がどう思うか、ではなく、自分はこれを表現したい、書きたい、という熱量の大きさが、書き手や表現者を衝き動かす。作品に入り込んで言葉をつむぐ。カメラを回す。

それでいいんじゃないかと。 

ただし、ラブレターと同じで、表現もある種の《賭け》です。しかも、負けることの多いギャンブルだ。フラれることも、ままある。でも、それでも書く。表現する。負けることが多いからこそ、より熱烈に《賭け》に挑む。

ルーレットで、いちばん当たる確立の高い場所、赤と黒とか、偶数と奇数にしか賭けないギャンブラーなんて、面白くもなんともないじゃないですか。

いや、プロのギャンブラーはそうではないのか。地味に、勝ち続けるには、面白さなんて排除する冷静さが必要なのか。

そう考えると、どっちがいいのかわからなくなりますが、少なくともわたしは、血眼になって有り金を全部すってんてんにすってしまうドストエフスキーのような小説家が好きですし、 自分もそうありたいと願いますね。

 今、勝つというのは、作品が市場(マーケット)で、より多く商品交換されるということ。100万部売れるということは、100万回、商品として貨幣と交換されたわけですからスゴイですね。

ドストエフスキーがお金のために小説を書いたことは有名な話ですが、書かれたものを読むと、そんなことを微塵も感じさせません。彼の神に対する熱烈な情熱であふれていて、ときに逸脱するほど激しく挑戦的で、あんなラブレターを書かれたら相手もドン引きですが、思いの大きさ、深さは、間違いなく伝わるはずです。

誰に向けて書くのか。撮るのか。

あえていうなら、マーケットではなく、言葉や物語の《神》がいるとして、その超存在に審判を仰ぐようにして書く、表現する、ということなのかな。

 

 

 

 

 

 

 


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桐野夏生『バラカ』を読みました。

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 桐野夏生『バラカ』を読了。3、4ヶ月、映画作りと書き物で過ごしたので、長いものをがっつり読んだのは久しぶり。

3・11から五年。大震災、大津波、そして原発事故から5年の歳月が過ぎました。

忘れてはいけない、風化させてはならない、と人も自分も言うけれど、時間は残酷に前へ前へと流れ、過去はどんどん薄れていく。神戸地震では姉を亡くしたので、その風化の速度は人よりも遅かったように思いますが、それでも過ぎ去った年月は、現在の時間の濃密さに勝ることはありません。

わたしはそれが辛かった。大事なものが少しずつ溶けて自分のものではなくなり、大海原に帰っていくような感覚。 悲しいけれど、ほんの少し、安堵したりもする。

忌まわしい記憶をいつまでも同じ濃さで抱えていると、人はおそらく狂ってしまうでしょう。だから、忘れることも必要。という説明もなされますね。

そうこう考えると、小説とは、なかなか結構な記憶装置なのかもしれません。

 小説『バラカ』は、福島原発事故以降のこの国の、ひとつのあり得た近未来を描いています。

「あり得た」というのは、原発事故を、現在われわれが把握している規模(本当のことは誰も分かりませんが)よりもじゃっかん大きめに設定して、関東から東北全体が広範囲に汚染されてしまったとされているからです。 

作者は、3・11以前から書き始めた長編小説を、途中から大幅に軌道修正して原発事故後の小説に、いわば強引に仕上げました。 作者の小説を読みなれている人は、おそらく「あ、この強烈なキャラは、3・11以前からのだな」「これは3・11以降に創ったキャラだな」などと、登場人物を読み分けることも可能だと思います。桐野作品がほとんど初めてのわたしでも、なんとなく分かります。

 それは、小説としてはマイナスなはずで、作者も出来ればしたくないでしょう。でも、今回は違った。書いていたものが、3・11、とくに原発事故によって、よりいっそう切実に書きたいものになったのではないか。

あるいは、3・11、とくに福島原発事故を、小説家として「なにがなんでも書かねばならない」と、腹をくくったのではないか。そんなふうに思います。

 で、読者としては、「忘れまい」とする意志や希望に反して、少しずつ忘れかけていたものが、沸々とよみがえってきた感じです。忌まわしい記憶というより、向き合わねばならない現実として。

原発事故、ですから。地震や大津波とは違う。

時間が経つと、その違いが薄れてくるのですが、この小説は、ガツンとそれを思い起こさせます。

小説としての結構がどうだとか、キャラの設定がどうだとか、結末に不満だとか、そういうことをぜんぜん言いたくならない。

強烈なストレートパンチを喰らった印象です。

この方が、効きますね。

福島原発事故。忘れるものか。

 

 

 

 

 

 

 


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塩見鮮一郎の文章修業道場「文藝トーク小屋」@新宿歌舞伎町

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いよいよ始まりますね。

新宿、文藝トーク小屋。神田にあった文藝学校から独立し、新たに新宿で再スタートします。

ホームページも構築中です。 → http://bungei.info/

※場所、日時、会費など詳細はHPをご覧ください。

上記のアドレスか「文藝トーク小屋」で検索すればトップに出て来ます。

 

もはや近代的な学校組織ではありません。そうではなく、なんですかね、強いて言えばお師匠のもとに稽古をつけてもらいたく集まる弟子の集まり、とでも言いましょうか。

 それで、「塩見鮮一郎の文章修業道場」です。

小説愛を貫いて60年の現役作家塩見鮮一郎氏が、秘伝の文章技法を惜しみなく伝授します。

基本スタイルは、参加者の事前に配られた小説(評論、詩、エッセイ、戯曲でもOK)を、参加者全員で合評し、塩見氏が最後に講評する感じ。

そして、今回の新宿再スタートから、古典作品を読んでいくミニ講義もあります。

第1回は、物語の元祖『竹取物語』です。

この物語をいろんな角度で読み込んでいくのも楽しいですが、道場では「文体」に注目するとのこと。

明治維新以降、日本語は外国語の影響を受けてずいぶん変わってしまった。江戸以前と比べると、よいことも、そうでないことも現代の日本語にはある。 (塩見鮮一郎『江戸から見た原発事故』など参照)

そこで竹取物語の「文体」に注目してみようということです。 

どんな話になりますか。今からとても楽しみです。 

 テキストは、黄色の岩波文庫。

 

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第1回は、4月7日です!!

 

 

 

 


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伊勢神宮の内宮と荒祭

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実家に帰省ついでに、伊勢神宮へ行って来ました。

現在製作中のショートドキュメンタリーの撮影です。

いや~、すんごい混雑。人、人、人。

伊勢神宮、意外に撮影に関しては寛容で、ふつうは嫌う三脚を使っての撮影もOKでした。

しかし。やはり撮影が許可されるのは、本殿に向かう階段の下まで。カメラを抱えて階段を上がり、最後の鳥居をくぐったところで警備員にカメラを止められました。理由を問うと、「非常に神聖な場所なので」という答え。

伊勢神宮の本殿は、四重の垣根と建築物で囲われているので、その外側から撮影しても、なにも映らないんですけどね。

それでもたいていの日本人は、この場所に、現在の皇室からさかのぼることはるか神話時代につながる天照大神が祀られていることを知っています。だからなんとなく、「神聖な場所なのでダメです」と言われると、そんなものかなと思ってしまう。 

ところが外国人は、日本語を読めなかったり、そもそも伊勢神宮についてあまりよく知らない。

それで、自撮り棒をめいっぱい伸ばして、本殿の前で彼女とふたりでニッコリ、なんてやってます。警備員も大忙し。

さて。本殿をあとにして、いつものように別宮、荒祭宮に寄り道します。

アマテラス大神の荒御魂が祀られています。

「あらみたま」ってなんでしょうね。

『中臣祓訓解』に、伊勢神宮の内宮別宮、荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると書かれているそうです。

おお、セオリツヒメ。

祓戸四神のトップバッターにして中心的女神。

福島で今もダダ漏れの放射性物質を無化するため、キヨメの女神として汚染水を祓い清める役割を担わされているのか。

伊勢神宮は「日本人の心」、なのであれば、この荒祭宮=セオリツヒメもまた、裏返した「日本人の心」、である気がしますね。

 次はぜひ、国道6号線を北上して、福島第一原発の20キロ圏内を撮影しにいきたいです。

裏返しの「日本人の心」が見えるかな。

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3月3日 ブログ 復活します! 浅草弾左衛門全3冊+資料篇

2015年11月20日に池波正太郎の記事を書いてから、諸事情によりブログを休止していました。

しかし、今日から再開します。よろしくお願いします。

 先日、久しぶりに、台東区橋場の皮革産業資料館に行ってきました。二年ぶりかな。

ここの資料展示室。とても充実していて、長い時間楽しめるのですが、当時なぜか弾左衛門の展示が、塩見鮮一郎『浅草弾左衛門』の本しかなかった。

副館長の稲川實さんの著書『西洋靴事始め』(現代書館)を読むと、ちゃんと弾左衛門について書いてある。

しかし、現存する資料が極端に少ない、皆無に等しいと書かれていました。

二年前訪問したとき、写真の『浅草弾左衛門』ハードカバー版を見つけました。

おお、あるじゃない。と思って嬉しくなった記憶があります。でもそのとき、一冊欠けていたんですね。今回いくと、ちゃんと四冊(全三巻+資料篇)そろっていました。

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それどころか、置いてあった冊子『かわとはきもの』を読むと、弾左衛門の資料を探していると書いてある。弾左衛門の記事も連載が続いているようです。展示の大きなガラスケースには、かなりのスペースを空けて、そこにわたしには見慣れた弾左衛門の写真が大きく伸ばされて、どーんと置いてありました。

皮革産業資料館。今後の展開が楽しみになってきました。


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池波正太郎『剣客商売』を読んでみた。

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ワタシが利用する墨田区の図書館では、入り口に小さな本棚があって、館内整理のための処分本いわゆる「どうぞご自由にコーナー」があります。先日そこに、池波正太郎の『剣客商売 十番斬り』(新潮文庫)が置いてありました。

実はワタクシ、あまり時代物は読んできませんでした。

『浅草弾左衛門』や『車善七』を読むようになってようやく、少しは時代小説の幅を広げてみようと思ってはいますが、藤沢周平までが精いっぱい。みんなが大好き池波正太郎については未読だったのです。

で、家に持ち帰って読み始めました。

あれ? なかなかけっこう面白いじゃん。

上野、浅草、鳥越、深川、本所。よく知っている江戸の町が舞台なのも、読んでいて楽しい。

作者池波さんは、浅草生まれの浅草育ち。生れたのは待乳山聖天の近くで、浅草永住町、今の住所でいえば元浅草で育った下町っ子です。

でも、だとすると。。

塩見鮮一郎を読んできたワタクシとしては、待乳山の近くを流れる山谷堀の向う側、弾左衛門の屋敷がある「囲い内」、浅草新町(しんちょう)をどうしても思い浮かべてしまいます。

池波正太郎は、浅草新町のことをどこかで書いているのだろうか。

吉原は書いたに違いありませんが(まだ確認してませんが)、おはぐろどぶの向う岸にへばりつくように車善七の邸宅や溜(ため)があったことは書いたのかな。

気になります。

とりあえず、『剣客商売』の三巻まで読みましたが、出て来ません。

ぜんぶ読破はちとナンだし、ならば他力本願で、こんな本をぱらぱらとめくってみました。

以下は、アマゾンの説明。 

『鬼平』は軽いから強い。
社会が個人を見捨てつつある今の日本には、池波正太郎が描く、「世間」というセーフティネットによって誰もが「自前」で生きていける社会が必要ではないか。池波作品の「自前の思想」を読み解く!

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田中優子さんが、ときおりズバリと佐高を切り捨てるときがあって、小気味よい。

あっという間に読み終えましたが、浅草新町などに言及はなし。

やはり書かなかったのか。書けなかったのか。書く気はさらさらなかったのか。

次は鬼平を読んでみるか。。 


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文春新書『戦後の貧民』を読んでみた。その2

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塩見鮮一郎著『戦後の貧民』です。

読書会、さんぽ会もあります。

当ブログでご案内。 ⇒ http://shiomi-senichiro.blog.so-net.ne.jp/

アマゾンレビューなどしてみました。

ここにものっけておきます。

帯に「闇市」「孤児」「赤線」とあるので、漠然とイメージしながら本書をひも解くと、それらが語られる大前提として、序の章「占領 occupied」があった。

そうなのだ。8月15日の敗戦からわずか15日後、30日にマッカーサーは厚木飛行場に降り立った。これから戦勝国アメリカが、この敗戦国日本を占領(occupy)する。主語が我々日本人なら、アメリカ人に占領される(occupied)のだ。

そして9月2日、ミズーリ号艦上で無条件降伏文書の調印式。その場所にマッカーサーはこだわったと、作者塩見鮮一郎は書く。(塩見著『江戸から見た原発事故』に詳しく書かれている)

つまり百年前のペリーの艦隊が東京湾の奥深くに侵入し、ズドンと大砲を打って恫喝したあの砲艦外交に倣ったというのだ。以後、占領軍は去っても、その状態は変わらない。そして沖縄に占領軍は居続け、今にいたる。

沖縄の人にとってそれは常に「現実」だが、沖縄以外の「日本」にいると、そのことを忘れがちになる。

本書は「闇市」「パンパン」「赤線」「戦災孤児」など、主に被占領時代(アメリカに占領され主権を奪われていた時代)の庶民の苦しい生活、最底辺の生活を描写していくが、その背景にいつも占領軍がある。それが想像しづらいなら、現在の沖縄の「現実」を知れば容易になるだろう。P98に(戦後の日本で)「すさまじい数の暴行強姦があったのだ」と書かれるが、その真っ只中で生きなければならない。考えただけで身の毛がよだつ。

本書には、二つの歌謡曲が紹介されている。
菊池章子「星の流れに(こんな女に誰がした)」と「ネリカン(練馬鑑別所)ブルース」だ。
前者は戦争未亡人、後者は戦災孤児と関連する。両方ともYouTubeで聴けるので、ぜひ聴きながら読んでほしい。

P109に「歌謡曲が寄るべない最下層の女を主人公にし、その感情によりそい、あたたかく鼓舞した時代もあったのだ」と書かれるが、まったくもってその通りだ。隔世の観がある。ノスタルジーに溺れる必要はないが、こういう時代があったということを、若い人が知らないのなら、本書を読むことで少しでも知ってほしい。

作者がこの二曲を選んだのが、なんとなく分かる気になってくるのは、第二章、三章で、作者の父親がノモンハンで戦死したこと、つまり母親が戦争未亡人だったこと。自分自身が戦災孤児に近い境遇で育ったこと。などが、詳しく書かれてあるからだ。

だからこそ本書の最後の最後の一文、「どれほど無念であったことか」に、万感の思いが込められていて、読者の胸を打つ。

本書で貧民シリーズの完結編となったようだ。

明治を描いた『貧民の帝都』、そしてタイトルそのまま『中世の貧民』『江戸の貧民』と、時代ごとにそれぞれ違った書き方をしていてどれも面白いのだが、本書『戦後の貧民』は、現存する多くの人が経験した時代であるだけに、また作者の実体験が盛り込まれているだけに、言葉に力がこめられている。怒りといってもいい。あまりそういうことを好まない作者のようなので、声を小さくして、付け足しておきたい。


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「文春新書新刊『戦後の貧民』を読み、歩き、呑む」会

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塩見鮮一郎「貧民シリーズ」最終刊、『戦後の貧民』がとうとう世に出ました!

刊行順に『貧民の帝都』『中世の貧民』『江戸の貧民』と続いたシリーズも、これでおしまいになるそうです。だからでしょうか、今回の『戦後の貧民』は、力の入った内容になっていると思います。なんと言っても、作者自身が経験した、戦後のドサとクサの時代ですから。

それで、イベントを企画しました。

ベタなコピーですいませんが、「『戦後の貧民』を読み、歩き、呑む」です。

要は、本をサカナに酒を飲むわけでございますが、せっかくなので、本に書かれてある、「闇市」「街娼」「ゴールデン街」などを、作者といっしょに歩いてみようと、思うわけです。

本にも紹介されている昭和歌謡の名曲、「星の流れに」ミニライヴもあります。歌は、会場のゴールデン街「ナベサン」にゆかりのあるシンガー、宮原Panda裕子さんです。

日時:2015年10月24日(土)

時間:15時集合(新宿アルタ前)

日程: 新宿闇市跡散歩 → 16時半頃からゴールデン街「ナベサン」にて読書会、サイン会、ミニライヴ「星の流れに」 → 19時頃から、歌舞伎町上海小吃」で二次会

費用:「ナベサン」フリードリンク+参加費で2500円(飲まない人は2000円)。二次会は別料金。

「ゴールデン街・ナベサン」で検索してみると、こんなことが書かれていました。

お店は41年目の古いお店です。ゴールデン街の中でも古株になってしまいました。店内は往時を偲ばせる様子を保っています。3階は開かずの間ではありますが、青線の頃そのまま。荷物もそのまま…。ふとんも敷いてあります。関心のある方は是非一度のぞいてみてください。

え!! マジすか。。興味ありますねえ。

そんなこんなのにぎやかなイベントになればと思います。

ご参加の方は、コメントをくださるか、メール(w-satoshi●sea.plala.or.jp ●を@に変換)にてお願いします。


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塩見鮮一郎『戦後の貧民』を読んでみた。

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 文春新書新刊『戦後の貧民』です。

戦後っぽい、昭和な自宅の押し入れ前で撮ってみました。

中身を少し紹介すると、

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第一章「大移動のはじまり」

第二章「米兵慰安婦と売春」

第三章「さまざまな傷痕」

この三つの章でぎっしりと、敗戦後数年でおきた「史上最悪の日々」(まえがき)が語られます。

しかも、そのすべてに「占領」という背景があった。そのことは、序の章「占領」で詳しく書かれます。

この本を読んで、突然思い起こした風景、人物があります。

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 横浜のメリーさん。

知っている人も多いんじゃないかな。『ヨコハマメリー』というドキュメンタリー映画にもなりました。

以下は、映画のHPから。

『歌舞伎役者のように顔を白く塗り、貴族のようなドレスに身を包んだ老婆が、 ひっそりと横浜の街角に立っていた。本名も年齢すらも明かさず、戦後50年間、 娼婦として生き方を貫いたひとりの女。かつて絶世の美人娼婦として名を馳せた、 その気品ある立ち振る舞いは、いつしか横浜の街の風景の一部ともなっていた。 “ハマのメリーさん”人々は彼女をそう読んだ。』

実在したこの女性は、95年の冬、突然横浜の街から姿を消すのですが、その後の行方は映画に詳しく出て来ます。

わたしは、94年から95年、何度もこのメリーさんを見かけました。横浜駅の西口広場でした。戦後50年の横浜時代、最晩年のメリーさんということになります。映画では、その後、故郷へ帰っていったとのことでした。

いっけん、ホームレスふうに見えるメリーさんですが、身なりや立ち振る舞いがどこか違う。「なんなんだろう、この人は」と、何度も立ち止まって、彼女を見つめていた記憶があります。

今の横浜駅西口はさらにまた開発されてしまいましたが、その前の西口、メリーさんがいた西口の風景も「戦後」を一掃した小ぎれいで清潔な街でした。

そう、メリーさんひとり、「戦後」あるいは「敗戦」、もっといえば米軍米国による「占領」を、全身で表現していたのかもしれません。

そんなことをふと、思い出したのも、『戦後の貧民』の第二章、「米兵慰安婦と売春」を読んだから。

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これは、溝口健二の映画『夜の女たち』です。

戦後、メリーさんをはじめ、このような女性がたくさんたくさん、街頭に立って春をひさいだ。

鬻(ひさ)ぐ。言うまでもなく、「売る」ということです。春を売る=売春。

本書の108頁に出て来ますが、こんな歌謡曲が巷に流れていた時代がありました。

菊池章子が歌った「星の流れに」。

https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag

「こんな、女に、誰がした~」で有名な歌ですね。

本来のタイトルはそのまんま「こんな女に誰がした」だったのが、GHQがクレームをつけてきて変更せざるを得なかった。でも、タイトルがソフトに変わっても、歌のインパクトは変わりません。

塩見鮮一郎も次のように書いています。

『歌謡曲が寄るべない最下層の女を主人公にし、その感情によりそい、あたたかく鼓舞した時代もあったのだ』(109頁)

あゝ、その通りですね。そんな時代もあったのです。

歌詞を紹介しておきましょう。

   星の流れに 身を占って
  何処をねぐらの 今日の宿
  荒(すさ)む心で いるのじゃないが
  泣けて涙も 涸れ果てた
  こんな女に誰がした

  煙草ふかして 口笛吹いて
  当もない夜の さすらいに
  人は見返る わが身は細る
  街の灯影の 侘びしさよ
  こんな女に誰がした

  飢えて今頃 妹はどこに
  一目逢いたい お母さん
  唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
  闇の夜風も 泣いて吹く
  こんな女に誰がした

『戦後の貧民』第二章だけで、こんなに感想があふれてしまいました。

ほんとうに、たくさんのことが書かれています。

闇市や戦災孤児のことも書かれています。

塩見氏自身もノモンハンで父親が戦死し、母子ともども困窮した戦後の時代を振り返っています。

読んでいて、ドキリとするのは、例えば以下のような記述。

『やせほそり、背も低く、精神もぐちゃぐちゃにされた世代、わたしは「身体に戦争を刻印されて生きて行く世代」であった』(160頁)

そして、第三章の最後、以下のような言葉が書かれます。

『タケノコ生活という言葉があるように、剥がされるものはすべて剥がされた。その数年を、わが母をふくめて、だれもがおのれひとりの思想にすがって日々を律し、身を粉にして働いた。日本史上もっともすさまじい貧困のなかを、どうにかくぐりぬけたのは奇跡としかいえない。あれから七十年、老いたわたしはいま、それらの日々を「聖」なるものとしてすなおに「祝」したい。災禍をまねいた支配層への怒りの言葉は自重して、それよりも、戦傷や伝染病や餓えに抗しきれなかった老若男女に合掌してペンをおきたい。どれほど無念であったことか。』(203頁)

これは決して誇張ではなく、わたしは一読し、身体も精神もしばし硬直し、動けませんでした。わたしたちは、このような戦後の歴史の延長線上に立っている。それを忘れないためにも、本書を読むことはたいへん有意義であったと思います。安保法案云々を考えるためにも、本書は必要不可欠になるでしょう。

 この三章の末尾は、おそらく「まえがき」の次のような言葉に呼応しています。

『恋人をさしだし、子を兵士にした戦さが、正義のかけらもなかったことだ。無意味な死を理解するのが、どれほど個体にとっておそろしいことか、どうか想像してみてください。』(5頁)

無意味な死。悲惨な戦後の生活。それはほんとうに恐ろしいこと。しかし、そこから逃れるすべはなかった。向き合うほか、なかった。だから、「星の流れに」のような歌が、巷に響きわたる。

いまはどうでしょう。

ひとりがんばっていたメリーさんもいなくなり、敗戦の名残りはすべて消し去った。

すると、無意味を意味に変え、正義を捏造する人々が出てくるのはなぜなのでしょうね。

今でも、「占領」は続いているかもしれないのに。


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文春新書新刊『戦後の貧民』

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ついに出ましたね。

塩見鮮一郎、貧民シリーズ第四弾。

アマゾンではこんなふうに紹介されていました。 

『70年前、日本各地に広がっていた、あの光景。敗戦後に現れた闇市、赤線。占領軍が闊歩する街中で、庶民は、孤児たちは、いかに暮らしていたのか? 塩見「貧民シリーズ」最新刊。』

この写真には写っていませんが、帯にはこんなコピーがあります。 

『焼け跡に現れた「闇市」「孤児」「赤線」。哀しくも逞しく生き抜いた70年前の日本人たち』

わたしのもとにも、もうすぐ届くはず。

すぐに読んで、「『戦後の貧民』を読み歩く会」というイベントの企画します。

日時だけは決まっていて、10月24日(土)になります。

新橋あたりになるのか。

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今年は戦後70年。8月頃には様々な特集番組報道が、新聞テレビでありました。

書籍では、

白井聡『永続敗戦論』

内田樹・白井聡『日本戦後史論』

孫崎享『戦後史の正体』

などなど、多くの戦後史関連の書を読み、「戦後70年」について、認識を新たにしております。

だから、この『戦後の貧民』は、とても楽しみにしていました。

塩見氏の「貧民シリーズ」は、

中世の貧民

江戸の貧民

貧民の帝都(明治)

戦後の貧民(昭和)

時代順に並べるとこうなります。ここまで続くと、なんだか次を期待してしまいますねえ。

酒呑み話で、「現代の貧民?」「いや、古代の貧民でしょ」などと勝手に盛り上がってましたが、個人的には「東北の貧民」あるいは「坂東の貧民」などに興味があります。

「貧民」というと、見下しているように聞こえるかもしれませんが、塩見氏の「貧民シリーズ」を一冊でも読んでいただければ、その誤解はすぐに解けますね。

そもそも、戦後のいっとき、誰もが貧しかった時代がありました。昭和20年の敗戦から、東京オリンピックあたりまでか。

でも、貧しい時代が、実は幸福だった。映画『三丁目の夕日』が人気なのは、そのことにみな、薄々気がついているのでしょう。

とまれ。

『戦後の貧民』の到着が待たれます。

 近いうちに、また書きます。


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もう一度『江戸から見た原発事故』、塩見鮮一郎の本

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塩見鮮一郎著『江戸から見た原発事故』現代書館、2014年1月 

昨年1月に出たこの本を、もう一度読み返しています。

というのも、最近、平川克美著『小商いのすすめ』を読んでいて、以下の一文でふと活字を追う目が止まってしまったのです。

「この震災以前と以後では、わたしがものを書いたり考えたりする立ち位置が変わってしまった」

こういうフレーズを、当時何度も目にしました。わたし自身も使ったと思います。

平川氏にも、先の本の原稿を書いていた途中に、3・11が来た。凄い衝撃だったと書いています。

直接被害に逢われた方々は違うかもしれませんが、平川氏も我々も、特に福島原発事故に強いショックを受けた。そして、中途の原稿を書き換えざるを得なくなったそうです。

そう。そうなのでした。「この震災以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」のです。

物書きの平川氏の場合は、「わたしがものを書いたり考えたりする立ち位置」が変わった。

わたしの友人の女性は、3・11の半年後に出産したのですが、あれ以来ずっと、子どもに食べさせる食品はなるべく関西以西のものを使っていると言います。 過剰だ、エゴだ、という意見もあるでしょうが、子どもを守るという使命感が、一貫して原発事故後の思考と行動パターンを維持させているのでしょう。

明日で、あれから4年半になります。

わずか4年半。もう4年半。たった4年と半年。

なんとでも言えますが、もしかすると、わたし自身もふくめて世の中全体が「この震災以前と以後で、○○が、変わってしまった」ハズのものが、すっかり元に戻ってしまったのではないでしょうか。

安保法案だ沖縄辺野古問題だ、やれ憲法改正、それ秘密保護法、オリンピック関連諸問題などなど、なんとも世の中はめまぐるしく動いていて、声高に反対したり、テキの思考や志向を分析したり、昭和史を読み返したり、忙しくアタマは巡っているはずなのに、いつの間にか、です。いつの間にか、元に戻ってしまった。

それに、これもわたし自身がそうなのですが、ものごとの上っ面だけを見て、考えたり分析したりする傾向がどんどん強くなっている気がして、愕然としたのでした。

上記に挙げた諸問題は、軍事力に支えられた国力を増強し、さらなる経済の発展をめざす。という明治維新以降の思考と行動パターンを、またも繰り返そうという勢力が、あれでもかこれでもかと、くり出してくるものです。

それらに対抗しているうちに、なぜかこっちまでが、テキの思考と行動パターンを模倣してしまっている。

まずいぞ。。

でも、こういうことって、ママあること、なのかもしれませんね。

ライバルに対抗しているうちに、だんだん相手に似てくる、とか。

でも、それではイケナイ。

平川克美は、手の届く実質経済から、今のグローバルな経済状況を批判して乗り越えようと模索しています。

例えばこんな本も興味深かった。『消費をやめる』

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平川氏の本は刺激になるのですが、いちおう文学畑を歩いてきたわたしとしては、もう一度『江戸から見た原発事故』を読み返して、「コトバ」という観点から、この「震災以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」問題を考え直してみたいのです。

それは、「明治維新以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」問題、でもあるのですね。

〇〇に入るのは、ひとまず「コトバ」になるのでしょう。

言葉が変われば、思考も志向も、変わる。行動も変わる。

では、変わる前の我々のコトバとは?

 『江戸から見た原発事故』を読みながら、じっくり考えます。

続く


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土地のこと、旅の終わりの養老

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GWの旅のことを書いているうちに、もう8月になろうとしていますね。

神戸から大阪経由で、旅の終点養老にやって来ました。
この日は五月晴れ。向うに養老山脈が見えます。あの山並みの中腹に、有名な「養老の滝」があります。

そういえば、関東に来て驚いたことにひとつは、「養老の滝って知ってる?」と聞くと、「千葉のでしょ」と言われることが圧倒的に多いこと。滝の清水が酒になる養老伝説も、意外と知られていません。知っていても、「へえ、それって岐阜にあるんだ」と返ってきますね、たいてい。

ついでにいえば、岐阜県に実家も本籍もあると言うと、「岐阜といえば高山でしょ」ときます。
こっちの人は、高山くらいしかイメージしないんですね。岐阜。超マイナーで地味なイメージ。

ちょっと前まで、岐阜出身といえば、中日のかつての名選手高木守道とか、巨人Vナインの正捕手で西武の監督を務めた森祇晶とか、やっぱり超地味地味観は否めません。
最近、金メダルの高橋Qちゃんとか、ようやく明るいキャラが増えましたけど。

そんなことはさておき、実家のある養老の話です。
かつて、じいちゃんばあちゃんの時代まで農家でしたから、母屋があって納屋があって、ついでに倉庫代わりに使っていた蔵と離れがある典型的な農村の家でした。
築百年近かった母屋と父親の勉強部屋として作った離れは、十年前に建て替え、ずいぶん立派な家屋になっています。


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村はずれの畑で養老山脈を眺める父親。

昭和11年生まれにしては兄弟が少なく、姉ひとりしかいません。農家のひとり息子長男坊。しかも小学生のとき大病をして、約一年間寝たり起きたりの生活でした。だから本ばかり読んでいた。勉強も出来るってんで、じいちゃんが張り切って離れを建てたのでした。
それが功を奏したか、京都の大学まで行って、結局そこで教員になり、実家の農家を継ぐことはありませんでした。
18で家を出て、72で私立大学を退職するまで、養老に帰ることはなかった。住むことはなかったという意味ですけど。


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これが母親。
こんな農家のばあちゃんみたいな恰好をしていますが、父親との結婚前は、名古屋の女子大を卒業したバリバリのお嬢さん。キリスト教徒でもあります。女子大時代、旅先の京都で父親が下宿しているお寺に泊まったのが、運命の出会いとなりました。
だから、どうしても養老に住みたがらない。
今は、名古屋の郊外にあるキリスト教系のホームと、養老とを行ったり来たりの生活をしています。

ところが、最近体調を崩した父親が、医者に「養老にいれば体調はよくなる」とズバリ指摘され、養老にいる期間が長くなったそうで。女房に付き合って、長く養老に帰ることはなかったけど、やっぱり生まれ育った土地が一番、父親にとっては良いんですね。
小学生のときも病気がちでしたが、30代で二度大手術を受けて腹を切り、72のとき腹部動脈瘤破裂で死にかけた。その父親が、ここのところずいぶん元気になったのは、養老の土地と水と空気が合うのだと思っています。

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その土地のことを書こうと思ったのでした。

村の中には、こういう空き地がいっぱいあります。
今回、両親に引っ張り回されて、ひとつひとつ叩き込まれました。
村の中に十数か所、ネコの額ほどの私有地があるというのです。初めてそんな話を聞きました。

小さな畑を作るくらいしか利用できない土地。畑さえも出来ない荒地もありました。
「なんでこんな土地が、うちのものになってんの?」と聞くと、驚く答えが返ってきた。

「わからん」

へ?
わからんって、ああた。どーゆーこと?

でも、じいちゃんもひいじいちゃんも、大切に守ってきたのだそうで。
「俺が死んだらお前が守るんだぞ」
って言われてもねえ。畑でトマトでも作ろうかしゃん。。(やるわけねえな……)

父親もよく分からないけれど、なんでも、明治になったばかりの頃ですから、私の祖父母の祖父母の時代だと思われます。働き者の祖先が、農民として必死に働いて、村の中のネコの額を、ひとつひとつ買い取っていったそうです。なんのために? と父親に聞くと、やっぱり答えは、

「わからん」

う~。肝心なことは何もわかんないのか。


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唐突ですが、最近、赤坂真理のこの本を読みました。
『東京プリズン』で賞をいっぱいもらった赤坂真理。その勢いそのまま、日本戦後論を語っています。
その中に、こんな言葉がありました。

『高度経済成長期とは、人が私有を追及するために共有空間をなくしていった過程であったとも言える』

第三章、「消えた空き地とガキ大将」に出てくる言葉です。ドラえもんのジャイアン論の章で、これがなかなか面白い。
ドラえもんといえば、空き地にピラミッド型に積まれた三本の土管ですね。それがなくなっていった1960年代の話です。

平成になって、すっかり「人が私有を追及する」のが当たり前の世の中になりました。
でも、かつては違った。空き地は「共有の場」だったし、そもそも誰のものでもない土地は、いたるところにありました。すべてが商品と化したのは、最近のことです。でも、その流れは、明治維新とともに始まった。

『アメリカの脅迫から日本の近代は幕をあける』

これは塩見鮮一郎『解放令の明治維新』の冒頭の一文です。
この数行後、

『このときから日本はアメリカの恫喝を受けつづけることになる』

という言葉に接続します。
この明治維新観と、敗戦後のアメリカ占領時代を引きずった戦後の日本。
結局、近代の日本は、アメリカによって、アメリカに従属することで生き延びてきた。150年も。

なんでこんな話をしているかというと、私の祖父母の祖父母の時代の養老でも、近代が幕をあけ、それと同時に土地の私有が始まった。150年たっても畑ぐらいしか利用価値のない土地で、その意味では予想は外れましたが、ひいひいじいちゃんは、先見の目があったのかもしれません。せっせと働いては、ネコの額の土地を私有化していったのだから。

父親が元気になったのは、養老の土地と水と空気が合っているからだと、先ほど書きましたが、「土地と水と空気」は、人間にとってもっとも大切なもので、本来は共有の財産です。それが商品化されていったのが近代150年の歴史ですね。アメリカに従属し運命共同体として生きた150年。

奇しくも、父親の大学での専門分野は「アメリカ文学」でした。細かく言うと、黒人をテーマにした演劇を研究してたそうで。今も離れの書斎の本棚に、「テネシー・ウィリアムス」とかが、ホコリをかぶって放置されてます。

でも引退してからは、「英語なんてつまんない。オレ、短歌で賞を取るぞ! 」などと言って張り切ってますね。生まれ故郷の養老で、短歌をひねりながらの余生がよほど肌に合っているみたい。
近代人の母親に引きずられ続けた人生でしたが、最近はどうも様子が違うようです。

そういえば、父親は大学時代英文学専攻でしたが、民話創作サークルに入り、自分で創作民話を書いていました。
京都に出て、すぐに養老が恋しくなったのでしょうか。
大学を卒業し、いったんは高校の教員になりますが、一年で嫌になって退職、大学院に舞い戻ります。内気な性格なので、研究者がいちばん自分に向いていると思ったのでしょう。職業選択のため、英文学の世界に入った。そういった面があったのかもしれません。

でも、今や養老で短歌です。
母親に付き合って、教会に行ったりもしますが、キリスト教に入信するつもりはないみたい。

私も、だんだん養老という「土地と水と空気」が自分のものになりかけている気がします。
若いころは、母親の実家がある愛知県刈谷市のほうにシンパシーを感じていたのですが。

こうなったら、ひいひいじいちゃんの残してくれたネコの額で、トマトでも作ろうかな。
ん~、やっぱ、まだトマトは無理かな。。






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岡山、神戸、岐阜への旅 その7

ゴールデンウィークの旅のことを書いていて、はや7月になってしまいました。。

弾左衛門のお墓の写真も撮ったし、旅の目的はほぼ終了。
あとはプライベイトな用件です。ま、全部私的な用件ですけど。
つまり、すべて、誰に頼まれた訳でもないってことっす。

とはいえ、これから訪ねるのは、やや感傷的になる場所。

知る人ぞ知る、このブログの「神戸 1995.1.17」を、 第8回で中断してますが、ここに来てから続きを書こうと、あたためておったわけです。

なので今日は、さらっと。
いずれ第9回で詳しく書きます。


ここは神戸市東灘区魚崎のとある場所。
下の写真、右側の建物が、姉の家のあった跡地に建った高齢者のホームです。
デイケアもやってるようですが、写真部分は住宅のようですね。

左側に写っている石垣は、震災当時もあった立派な個人住宅のもので、東灘区には珍しい(失礼!)邸宅でした。大邸宅とはいかぬまでも中邸宅くらい。
そういう住宅は、地盤が悪くともしっかり建っているんでしょうか。
周囲の住宅がのきなみ倒壊・全壊したのに、この邸宅は、しっかりと震災前と変わらず建っていました。うらやましかったな。。

とはいえ、今回来てみたら、新建材のモダンな建物に変化していました。前はオール木造のシブいお家だったのです。味わいのある、粋な邸宅でした。さすがに老朽化したのでしょうか。

でも、考えてみたら、同じ木造住宅なのに、きっと大工さんの腕がよかったのでしょうね。
まあ、たっぷりお金もかけてあったのでしょうけど。

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もっと寄るとこんな感じです。
自転車が置いてあるあたりが、おそらく姉の家の台所付近だったと思います。
亡くなったのは、そこから二、三メートル内側に入ったところ。


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今はこんなに立派なホームが立っていますが、姉の家は築50年近い木造住宅でした。
戦後すぐに建てられたものなのかもしれません。
一軒家(二階建て)に玄関をふたつ付けて、二世帯が住めるようにした住宅。
戦後の住宅難で、急ぎホイホイと簡易的に建てたのかもしれません。
同じタイプの住宅がいくつか建っていましたが、すべてペシャンコでした。

このタイプ、関西に多いですよね。アパートふうに二階建て数軒が連なってたりするやつ。
なぜか、関東ではあまり見かけません。


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どういう経緯で、住宅跡地にホームが建っているのかはわかりません。
たしか、借地権だけで、五十年近く住んでいたはずなので、みんな手放したのでしょう。
ホームの方のご厚意で、このようなものを造っていただきました。
私にとっては、これが姉夫婦のお墓になります。わけあって。。


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あれから二十年。
生きていたら、姉も50歳になります。夫は52歳か。
もう想像もつきませんね。あ、自分と同じような感じと思えばよいのか。。

震災前の魚崎の記憶がほとんどありません。姉の新婚家庭に、1度しか遊びに行かなかったし、それ以外に神戸を訪れたことがなかった。

それでも、その1度だけのかすかな記憶は、まだ脳裏にちらりと張り付いています。
まだ高架式でなかった魚崎駅を降りると、古い商店の寄り集まった市場のような場所がありました。長靴を履いた魚屋のおっちゃんとか八百屋のおばちゃん、肉屋のコロッケのにおい、小さな花屋さん。そんなこじんまりした、薄暗い、でも人情味あふれる市場でしたよ。

姉の家の前は土の路地で、猫が軒下で日向ぼっこしてるような感じ。
それを踏みしめて、姉の家の玄関のチャイムを鳴らした。
ガラガラガラって音がして、新婚の姉が迎えてくれました。和服でもしっくりくる雰囲気。
家の中に入ると、台所は土間になっていてびっくり。井戸も奥にありました。
もしかしたら戦前からの建物なのかな。土間に井戸ですから。

そんな路地や建物があったことなど、もはや信じられないくらい、周囲の風景は一変しました。
神戸はどこも、似たり寄ったりなのでしょうけど。

そういえば、かつてここにあった姉夫婦の家は、夫(私からすれば義兄)のオジが釣り好きで、もはや常住はしてなかったのですが、釣りをするときのねぐらとして使っていたらしい。それを、若夫婦が安く借り受けたとのことでした。

魚崎という名前のとおり、昔はすぐそこが海岸線。
戦後しばらくでも、そうだったのでしょう。
釣り好きのおじさんにとっては、最高のロケーションということですね。

魚崎。となりは住吉。
海の匂いがします。

今度来たときは、海の方まで散歩してみようかな。
今は、六甲ライナーに乗らないと無理か。。
海も遠くなりました。















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岡山、神戸、岐阜への旅 その6

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神戸にやってきました。
岡山からの経路は端折って、ハイ、いきなり神戸市東灘区に到着です。

南魚崎村と読めますね。六甲山に向かって撮っています。
映ってませんが、右手に六甲ライナーと住吉川があります。
この角を曲がって、旧住吉村に入りました。
しばらく歩くと、住宅街の中、四角に区切られた墓地があります。
探していたのは、これ。

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正面には「南無阿弥陀仏」としか彫られていませんが、この墓石の乗っかっている台座のところに、「弾」の文字が読めます。

そう。これ、第十三代弾左衛門こと、弾直樹さんのお墓なんですね。彼はこの住吉村の出身なのです。江戸、浅草にもお墓がありますが、故郷であるこの地にもあります。

小説『浅草弾左衛門』では、「第一巻 天保青春篇」で、住吉村における弾直樹の少年時代(幼名は小太郎)が描かれます。
住吉村のところをちょっとだけ引用すると、


住吉村は、御影村と魚崎村にはさまれ、南北に長い。七ヶ町からなっていて、そのひとつ、中ノ町だけが皮多だ。(小学館文庫『浅草弾左衛門 第一巻』67頁)


皮多とは、江戸における穢多身分のこと。
今でも阪神神戸線の駅は、大阪に近い順でいうと、魚崎、住吉、御影と並んでいますが、江戸時代は、これがそのまま村名だったのですね。
その住吉村の「中ノ町」については、この本から引用してみます。


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『弾左衛門とその時代』の第三章。「弾直樹の生涯(小伝)」から


 中ノ町は古くからひらけた土地で、四世紀中ごろに建てられた本住吉神社があり、求女塚(東)と呼ばれる前方後円墳もある。いまの住所でいえば、神戸市東灘区住吉町一丁目である。
 住吉村は、維新直後のころ、五百五十戸、二千人少しが住み、山田町、空町、西町、茶屋町、吉田町、中ノ町、呉田町の七ヶ町にわかれていた。中ノ町が被差別部落で、八十八戸あった。
 小太郎が生まれたのは、ここである。当時は摂津国に属し、菟原郡灘住吉村中ノ町であった。


小説『浅草弾左衛門』は、ここ住吉村中ノ町で生まれ育った小太郎少年に、江戸の第十三代弾左衛門を襲名するという話が舞い込んでくるところから物語は始まります。

最初に読んだときは、よく分かりませんでした。なんで、関西の貧しい村で育った少年が、江戸の穢多頭を襲名することになるのか。そもそも弾左衛門制度とはなんなのか。
『カムイ伝』でも、弾左衛門が出て来ますが、忍者の陰の親分みたいに描かれていて、それはそれでよく分かりません。
ですから、塩見氏の『弾左衛門とその時代』は、小説の解説本として、同時に読んでもらいたい本ですね。

塩見氏の著作を読んでいくと、江戸の見方がずいぶんと変わってきます。江戸は様々な身分が寄り集まった百万人の大都市ですが、その何パーセントかは、賤民たちです。それも、穢多や非人だけではありません。
そのあたりのことは、この本から引っ張ってみましょうか。

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河出文庫『乞胸 貧民に堕ちた武士』です。


 享保十年(1725年)に弾左衛門が奉行所に提出した文書には、中世以来、つぎの二十八座を支配する権限があたえられていたと主張している。
 一、長吏(穢多身分のこと)
 二、座頭(盲人の組織・当道座に属する人で、あんまのほかに琵琶を弾いたりする)
 三、舞々(鼓にあわせて謡いながら踊る)
 四、猿楽(物真似や曲芸、能や狂言)
 五、陰陽師(加持祈祷のまじない師)
 六、壁塗(左官)
 七、土鍋師(土鍋を作り売る人)
 八、鋳物師(鋳物職人)
 九、辻目暗(当道座に属さない盲人のこじき)
 十、非人(こじき。車善七などの組織に属する抱非人と無籍の野非人がいた)
 十一、猿引(猿に芸をさせて馬の安全を祈る)


ふう……。
二十八ぜんぶを引用するのはやめますが、江戸の中頃は、こんなにたくさんの賤民たちが、弾左衛門の支配下にあったわけです。時代が下るにつれ、少しずつ支配を抜けていきますが、幕末まで非人と猿引だけは、直接的な支配下に置かれました。

こういった多くの賤民たちも歴史の中に生きていた。士農工商穢多非人などと習いましたが、そんな単純に割り切れるものではなかったのです。
それを、小説やエッセイなどの面白い読み物として世に出してくれたのは、ほとんど塩見鮮一郎氏以外にいないのではないでしょうか。

あれ。話がどこかへ暴走しました。

弾左衛門のお墓のことを書いていたのでした。
今、お墓は、住宅街の中にひっそりとあります。
歴史的な人物なのに、なんの標示もありません。触れられたくないのでしょうか。
墓地の入口もこんな感じで、なかなか見つけられませんでした。



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ところで、最初に引用した『弾左衛門とその時代』には、こんなことが書かれていました。


 私事になるが、わたしは魚崎に親戚があったーーまだ高校生だったが、夏休みに何度か行き、住吉川のほとりとか酒倉の並ぶ道を歩いたことがある。


奇遇ですねえ。
わたしも魚崎に姉がいました。95年の震災で亡くなりましたが。

次回は、その姉の墓参りです。



続く




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岡山、神戸、岐阜への旅 その5

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これが京橋になりますね。
下の写真は、京橋を岡山駅方向に渡って、対岸から中州を写したもの。
かつて、あの場所には煌々と灯がともり、イケメン吉行淳之介や永井荷風が芸者と遊んだ、というのは塩見氏ご自身に教えていただきました。
塩見氏が岡山大学に通う頃、ここで飲んでいて、そういう昔話を聞いたのですね。「イイオトコだったよ~」と女性たちが言っていた。あ、吉行の方ですけど。言わなくても分かるか……。

さて。
今日はコテコテの岡山観光します。天気も良いし、岡山城や後楽園に向かいました。テッパンですね。

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お城を右に見て、旭川にかかる細い橋を渡り、後楽園に入場。
後楽園は、城の後ろの園という意味だそうですね。当初、ただの「後園」だったのが、「先憂後楽」という精神から改称されたとか。

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後楽園を出て、すぐの橋。後楽園側から市内に向けて撮っています。
永井荷風が岡山空襲で逃げ惑った「旭橋」は、この鶴見橋のことだと思います。旭川にかかる橋だから「旭橋」と記憶したのか。

岡山で荷風が空襲に会ったことは、『断腸亭日乗』だと短い数行ですが、昭和二十年のみを抜粋して加筆した『罹災日録』の方は、より詳しく書かれています。旭橋もこの『日録』にのみ出てくる。
塩見鮮一郎少年の空襲体験は、前回引用させていただきましたが、荷風の体験も見てみましょうか。
荷風、このとき66歳。東京を焼け出され、岡山ではなんと3度目の空襲体験となりました。


六月廿八日 晴。宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見、今明日必ず災異あるべしとて遽に逃走の準備をなす。果せるかな。この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。予は夢裏急雨の濺来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に昼の如く、叫声跫音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駆け降りるより早く靴をはき、出入の戸を排して出づ。
旭橋に至るに対岸後楽園の林間に焔の上るを見しが、逃るべき道なきを以て橋をわたり西大寺町に通ずる田間の小径を歩む。焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す。前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る。

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ネットで調べてみると、

『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』

というブログの記事があって、荷風の逃げた方向を地図上に記したものがありました。
これを見ると、荷風は「対岸後楽園の林間に焔の上るを見」ても、橋を渡っていくしかなかった。後方は爆心地で火だるまですから。そうしなければ、焼け死んでいたのかもしれませんね。
対岸に行っても(実際は、旭橋と蓬莱橋を渡っている)、「焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり」といった状況で、いつ頭上に爆弾が落ちてくるか分からない。「死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して」とありますが、そのときの恐怖がいかほであったか。想像もできません。


さて、そんなわけで70年前の恐怖体験から、現代のノーテンキ、コテコテ岡山観光の続きに戻ります。

橋を渡って、市内に戻り、商店街に入りました。
岡山では超有名デパート天満屋(てんまや)に行ってみたかったので。


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む。ごく普通の地方デパートだ。
でも、私の地元岐阜県大垣市のこういうデパートは、閑古鳥が鳴いてますから、岡山天満屋はそこそこ盛り上がっていて、まあよかった。


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また一日乗車券で岡電に乗って、駅前の商店街に来ました。
市内ところどころに、こういう水路が残っていて水量も豊かです。なんとなく、水のある街って良いですね。
一日歩き回ってのどが渇きました。
そろそろ……。

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はい。これが一軒目。
ままかりをつまみに生を二、三杯。
二軒目は、前々回かに、外見は大衆居酒屋、中はオサレ居酒屋で、すぐに出たことは書きました。
ホテルにチェックインして、シャワーを浴び、再び夜の街を徘徊。


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これは次の日に撮った写真なので明るいですが、実際は夜の9時頃だったかな。
そろそろ地酒をいただかなくては。
つまみの魚も、いろいろそろっています。
ままかり酢漬け、そして旬のさわらもイイデスネ。いわしの煮つけもデカいぞ。
これらを目の前に並べて、さて冷酒をいただきましょう。


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う~ん。さっぱりわからん。でも安い!
なので、片っ端からぜーんぶ、いただきました。
うぃぃい、ひっく。。
酔った…。腹もクチって、眠い。
もうホテルに戻って寝なきゃ。

明日は神戸です。
ひっく。。



続く





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岡山、神戸、岐阜への旅 その4

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ネットで見つけた、昭和30年代頃と思われる岡山電気軌道の写真です。
岡大に通う学生服姿の鮮一郎青年が、文庫本『破戒』を読みながら、揺れるシートに腰かけている気がします。


さて。超近代的な2両連結の岡電(気に入ったので、オカデンと親しみを込めて呼ぶことにします)を終点東山で降りました。中納言からわずか2駅ですが。

それにしても東山(ヒガシヤマ)。京都を知っている人なら、「あ、あの東山ね」ってピンとくる。かつての城下町岡山市は、京都にある地名が多いのです。これについては、塩見鮮一郎氏がHPで書いているので、そこから引用させてもらいましょう。


「おかやま」とは、丘の山で、城が丘にあったので、この名になった。ただ、旭川が倉敷のほうに流れていたのを城の下に導いてきて、いまのかたちになった。内田百閒の筆名になった百間川は比較的に新しい支流である。また、岡山市はモデルを中世の京都にもとめた。だから、京橋という橋があるし、東山という山がある。この東山には江戸時代の初期に東照宮が置かれた。徳川にゴマをすってみせたのであるが、いまは玉井宮という。岡山駅から路面電車に乗ると終点が東山で、玉井宮の入り口である。この電停から左に入ったところが徳吉町で、むかしの寺町であった。電車の車庫になった広い土地も寺の跡かも知れない。


塩見氏は面白い人で、ご自分のHPで「転居歴」を詳しく公開されています。
生まれてから、2005年の67歳までしか書かれていませんが、それでもなんと! 21か所転居されている。上の引用は「⑤岡山市徳吉町 1942-45 4歳-7歳」からです。五番目に住んだ町ですね。それが東山の近くにあるのです。

これは、いろんなところで塩見さんが書かれていると記憶しますが、ここで不思議な体験をするんですね。
不思議なと私が思うのは、転居歴のところで1942年ー45年とありますように、戦時中なわけです。

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これが徳吉町の現在です。家は建て替えられていますが、石垣が残っていた。
この石垣は軍が造ったそうでして、その上には軍靴工場があった。その宿直室に母子二人で住んでいたそうです。

勝手研究者としては、ピンとくるものがある。
軍靴=矢野直樹。江戸の第十三代浅草弾左衛門のことです。明治になって矢野直樹と改名した弾左衛門は、その皮革加工の技術を生かして、軍靴工場を作ります。西洋靴の生産に乗り出すんですね。今も浅草には靴屋がたくさん残ってますが、これはその頃から続いているわけです。

不思議なというのは、塩見氏は弾左衛門について書いていて、ふと「そういえば幼い頃、軍靴工場に住んでいたな」と思い出すわけです。すると、その工場には、部落の人々が働いていたことも記憶の奥底から湧いて出てきた。それまでぜんぜん忘れていたのに。

そんなことってあるのかしらん。
なんとなく私は、無意識の意識が、作家塩見鮮一郎を、岡山の架空の被差別部落を舞台にした最初の小説『黄色い国の脱出口』から「矢野直樹=浅草弾左衛門」にまで結びつけたような気がします。偶然ではなく。
ま、偶然だとしても、人生って面白いですね。いつの間にか、幼い頃見聞きして忘れていたことを、小説やエッセイで書いていくことになるわけですから。


さて。永井荷風が岡山で空襲に遭遇したことは、割と有名な話で、荷風自身日記に書き残していますが、7歳の鮮一郎少年も空襲に会っています。「⑤岡山市徳吉町」の次に引越した「⑥岡山市門田屋敷の師範学校ちかく 1945 7歳」の時です。
こんなふうに書いている。HPにエッセイがあったので引用します。



百三十八の段 命からがら

空襲のことをくりかえし思いだす。アメリカ軍が北ベトナムやアフガニスタンやイランなどを爆撃するたびに、あの飛行機のしたを逃げまどう恐怖を想起する。かるいPTSD(心的外傷後ストレス)になっている。
そのトラウマをここにすこしばかりくわしく書いてみる。それが治癒にむすびついてくれるのをねがいながら。
真夜中に母にたたきおこされた。
わたしは八歳、小学校二年。岡山市東山三丁目の十字路に面した二階建ての一軒家に住んでいた。
借家だと思うが、二階には東京から疎開してきた大家族がいた。
「空襲よ」
と、母にいわれると、ひとりで二階にかけあがった。そこからだと、なにか見えるとでも思ったのか。ひくい天井のへやに、東京からきた家族がつっ立っている。だれも寝ていないし、すわってもいない。おおきな影がならび、てんでになにかいっていて、そんなことはこれまでにないことだから圧迫をおぼえた。
「西からやられている。空が赤い」
と、窓のそとを見ていただれかが声をはりあげた。
「すぐにこっちへくるぞ」
「山へ逃げろ」
と、つづいた。
空襲のときに逃げる場所はきめてあった。わたしは階段をころがるようにおりると、
「敵機来襲」
と、母におしえた。
「二階のおばちゃんらとさきに逃げなさい。おかあちゃんはあとからじきに行くから」
と、母がきびしくいい、防空頭巾(ぼうくうずきん)をつきだした。
そのときには、二階からもうみんながおりてきていた。廊下を走りぬけてうら口からでて行く。だれもわたしに声をかけてくれない。自分のことでせいいっぱいなのだ。わたしもまた動転していた。なにも考えられない。母のこともかまっていられない。
はだしで土間にとびおりてから、くらがりに下駄をさがした。片方しか見つからない。そとの通りから人のするどい声がとどいてきた。荷車の車輪ががらがらとひびいた。足音が地鳴りのようにつづいている。いよいよあせって、下駄の片方だけで走りだしたが、すぐにぬぎすてた。だれもがちかくの山にむかっている。自転車を手でおしている人もいたが、荷物をもっている人のほうがすくない。寝こみを襲われて着の身着のままだ。わたしのようなねまきすがたで、まえをはだけたまま走っている。
B二九の爆音がちかづいてきた。一機ではなく、つぎつぎとつづく。
「ふせろ」
と、知らない男がまわりの人にむけてさけんだ。
きょろきょろしたのち、もっとも安全に思えた道路わきのみぞにとびこんだ。幅が六十センチほどだから、おおきなおとなにはきつい。生活排水を流すみぞで、五十センチほどのふかさに、十センチ少々の水がよどんでいる。どぶは市中にくまなくはりめぐらされていて、そこにはふやけた米粒が浮いていたり、水草がゆらめいていた。ちいさい蟹(かに)がいるので捕ってあそんだ。きたなくてくさいにもかかわらず、わたしはすすんでとびこみ、背をまるめてふせた。
爆弾が燃えながらおちてきてた。
女たちが叫び、赤子が泣いた。わたしにあたるのか、あたらないのか。もううごけない。運を天にまかせている。そばの長屋が燃えあがれば、熱風につつまれてしまう。
飛行機が飛びさると、
「いまのうちだ」
と、だれかがいった。
おきあがり、道にはいだした。くろい影がいくつかたおれていた。死んでいるのかどうか。だれもかまおうとしない。おとなにまぎれこみ、あいだにはさまれたまま、丘に通じる坂道に入った。もうすこし、まっすぐにすすむと、丘の頂上へ直接通じる山道がある。一瞬、まよったが、ひろい通りをすすむ勇気がわいてこない。そこだと飛行機からまる見えになってしまうように思えた。
それで両側に家のならぶ、ほそい坂道をみんなといっしょに丘へといそいだ。
また飛行機が頭上に近づいた。さっきよりは低く、黒い影がおおきく見えた。家のとぎれたさきの左手に竹やぶがある。おとなに押されるまま、われさきに入り、おおきな穴にとびこんだ。底がじめじめしていた。とがったものをふんで、けがをしたようだが、すこしもいたくない。なにも感じない。それに声もでない状態になっていた。
物の落下する音がした。空気がひゅるひゅると鳴っている。焼夷弾は空中で爆発して、ちいさい油煙の玉になって花火のように空中にひろがり、燃えながらおちてくる。木と紙からできている日本家屋を焼くためにはじつに好都合であった。
さきにどぶにうつぶせたときよりも、こんどはずっとこわかった。西から始まった空襲は、もう町の中心部まで焼いたのだろう。東のほうに集中してきているのがわかった。頭巾をふかくかぶりなおした。
おおきな穴が人でうまった。くらがりに黒い人影があとからあとからやってくる。母の姿がないかと目をこらしたがわからない。いつのまにか、二階のおばちゃんらともはぐれてしまい、まったくのひとりぼっちだ。
爆音がきれると、プールのような穴をでて、ふたたび坂道をのぼった。もう左右に家はなく雑木がしげっている。ずっとさきの頂上に料亭ふうの一軒家がある。まわりはその家の畑で、そこの崖に横穴の壕が掘ってあった。なかはぎゅうぎゅうだったが、おとなが隙間をあけてわたしをいれてくれた。
焼夷弾の鉄の破片が音をたてて地面にぶつかっている。
ずいぶんとながく防空壕(ぼうくうごう)で息をひそめていた。泣く赤子を懸命にあやす母親のひくい声がするだけだ。みんな黙然(もくねん)とうなだれていた。直撃されれば全員が焼け死ぬだろう。つらい時間だった。
夜がしらみかけるとしずかになった。
こわごわとそとにでた。丘の端に立つと市街が一望できた。きのうまでは家で埋まっていたそこは赤い炎の海だった。空の雲までが染まっていた。
「おわった」と思うと気持ちがほどけた。それでよけいにきれいに見えた。
あとにもさきにも、あれほど迫力がある豪華な眺めを知らない。だれもが息をのんで見つめていた。
一軒家で炊き出しが始まったとき、わたしは母とあえた。
「どうしてこっちの山道からこんかったの。あっちの坂は家が建てこんでるから、もし火がついたら通られんようになるじゃろ」
と、いきなりしかられた。
そのころには雨がふりだしていた。大火にあぶられた空気が上昇して雲になり、夕立のような雨になってふりそそいだ。原爆のあとにも黒い雨がふったそうだが、ふつうの空襲でもおなじで、煤(すす)のまじるよごれた水滴だった。丘の家の座敷にあがって、母といっしょにおにぎりを食べた。おおぜいの人が、だれの家でもないかのように、気ままに出たり入ったりしていた。ぬれたゆかたがいつのまにかかわいていた。
わたしの家から山がちかかったから助かったのだろう。子どもの足でもおくれないで逃げのびた。市中を流れる西川(にしがわ)や旭川(あさひがわ)には、黒こげの死体がいっぱい流れているとあとできいた。わたしは数か所のかすり傷ですんだ。
ただ、どこでだったのかわからないが、焼夷弾の火の粉を手の甲にあびていた。皮膚を焼いた油の玉は時間とともに肉にもぐりこみ骨にまで達するときいていたが、火の粉が微量だったのだろう、十個ほどのそばかすが指にできた程度だ。この赤い斑点はそれでも五十歳ごろまでは鮮明に見えて、人からよく、「指のそれ、どうかしましたか」とたずねられた。老人になったいまでも、うすれはしたが、まだいくつかのこっている。


「老後の楽しみ」というHP発表のエッセイからです。
岡山大空襲と言われている米軍の無差別爆撃で、約1700人が死亡し、家屋1万2千戸以上が焼失したそうです。


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(空襲後の岡山市内)


こういう記憶も、作家塩見鮮一郎を形成していくひとつの要素になっている気がしますね。


それにしても転居歴21回はすごいですね。
ところが私も引っ越し癖がありまして、指折り数えたら49年間で18回でした。塩見氏が67年で21回なら、ふふふ、勝てるかもしれません。

それはともかくとして、岡山の旅人は、東山駅に戻り、またも岡電に乗ったのでした。

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こんどはこんな車両。
なかなかカッコイイ。

旭川が見えて来ました。
京橋から、かつての遊郭のあった場所を写真に撮りました。


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続く





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