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現代の小説あれこれ

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さいきん、ドキュメンタリー映画の製作に頭をひねっているので、あまり小説を読まない期間が続きました。

で、ちょっと気分を変えようと、久しぶりに読んだ長編がこれ。

久米宏がラジオで推薦していたので、ふだんはあまり手に取らないベストセラーの単行本を書店で購入しました。

塩田武士。『罪の声』です。 

週刊文春ミステリーベストテンで、2016年の1位に輝いた作品。

 結論からいうと、ぐいぐい読ませる作者の筆力は認めるけれども、読後感はあまりよくない。でも、実際ほぼ一晩で読み切ったのです。面白かったのです。なのに、なにか物足りない。

これは、説明が難しいですね。なにが物足りないのか。

グリコ森永事件を扱ったこの小説。作家は、犯人グループを自らの手でぜんぶ創作し、実際の事件をそのままなぞって、架空の犯人たちをその中にちりばめます。 

問題は、犯人たち(主に主犯の男)の動機なのかな。それがいかにも薄っぺらい。

え? そんな理由なんすか……。と思ってしまいます。

これは作者の人間観や社会に対する洞察力の問題なのか。でも、そんなこと、えらそーにわたしから言われてもね。知るかってハナシですけども、そんな気もするのです。

で、話は飛躍しますけども、上記の読書体験が、さいきんの小説を書こうとする人々の状況について、なにごとかを連想させるのです。

わたしは、作家塩見鮮一郎氏がやっている「文藝トーク小屋@新宿」という、いうなれば小説教室に通っています。 以前は、神田にあった「文藝学校」という学校に属していた塩見クラスから、昨年4月に新宿で独立した形です。

そこに集まる若い書き手は、ラノベ、エンタメ志向がほぼ百パーセントですね。別にラノベ、エンタメが悪いとは言いませんが、ほぼ百パーとはどういうこっちゃ?? と思うのです。それだけでなく、わたしと同年輩、いやもっと上の書き手にも、エンタメ志向の人が多い。これもサブカル全盛の時代の影響でしょうね。

文学がある種の役割を担っていた時代が、とっくのとうに終わっていることは自覚していましたが、ではそういう人々はどこに流れたのか。これも結論から言いますと、いたのです。ドキュメンタリーの世界に。

少なくとも、一昨年くらいからわたしがのぞき見たドキュメンタリーの世界では、身を切るように我が身をさらし、表現してやろうと目論む人たちがゴロゴロいました。社会にもの申してやろうと、カメラを手に、街に出る。人を撮る。声を聞く。原発を取材したり、沖縄基地問題に切り込んだり。障害者、性差別、ブラック企業などの労働問題、などなど。

あるいは、自分をさらけ出すことをいとわない表現者にも会いました。障害者である「わたし」とか、コンプレックスに悩む「わたし」などです。

ふむふむ。むかし文学、いまドキュメンタリーか。などと思ったりもします。

しかし。ドキュメンタリストの先輩たちは、それでも後輩たちに不服なようで。

先日、高円寺ドキュメンタリーフェス に行って、コンペティション部門の表彰式を観客席から見ていました。そこに登場したのは、こわもて審査員の代表、足立正生氏。女性ではヤン・ヨンヒ氏。ふたりとも厳しかったですねぇ。入賞作品をそこまで酷評するかと思いました。

記憶に残った言葉は、正確ではないかもしれませんが、「対象に迫り切れていない、なれ合いになっている」ということ。批評性の有無についても、云々していた気がします。

これは小説を書く人間にも言えることですね。ただ、ドキュメンタリーは、少なくとも作り手が対象と向き合って初めて成り立つわけで、NHKの報道のようなものはドキュメンタリーとは言えません。誰が主体で報道しているのか、ハナから表明しているのがドキュメンタリー。なんだかわからん、客観という視点に逃げの一手を打つのがNHKです。

小説を書くときも、一人称の作品ではなくても、文中のどこかに、作者の主体が表れるものだと思います。それを避けようとすると、NHKのような小説になるのかな。

で、ひるがえって、冒頭の小説『罪の声』。ここにも作者の主体性は出ているのだけど、高円寺ドキュフェスの審査員、足立正生氏やヤン・ヨンヒ氏の酷評のようなものを、わたしが読後、感じたのかもしれません。

こんな犯人像ではないだろう、と。こんな動機で、あれだけの事件を起こすなんて、とうてい納得できないよ、と。

そんだもんで、ふと思い出した、10年以上むかしに読んだ、もうひとつのグリコ森永事件を題材にした小説『レディ・ジョーカー』を、本棚から引っ張り出して、読み始めたのでした。

 お。さすが髙村薫。ちょっと冗長な気もしますが、筆力以上に違うものがありますね。まだ文庫の上巻半分ほどですけど、そう思います。

嗚呼。読書は快楽だ。

いや、けっして映画から逃げる口実にしているわけではありませんよ……。(^_^;)

 

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8・15九段下から昭和16年の松本竣介へ

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松本竣介「議事堂のある風景」1942年

 

 8月15日の靖国神社周辺、九段下交差点付近の喧騒から一週間近くが経ちましたが、いまだ雑多な言葉が耳の奥にこだましている感じです。

それはスピーカーで増幅された耳汚い怒声や罵声だけでなく、「美しい」「誇り」「感謝」などという透明な重力のない言葉の群れだったり、「海ゆかば」の煽動的ですらあるメロディと詞であったり、 さらには、その後のオリンピックの報道の中で語られる「絶対に負けられない」とか「家族との絆」とか「諦めない強い意志」とか、まあいろいろです。

この夏は、ひときわ言葉の多い、言語過剰の夏だったように思われます。まだ夏は終わってないですけど。

だからなのか。

ふと、ひとむかし前にずいぶんとこだわって、彼の画集などを集めた、静寂の画家松本竣介を思い出したのかもしれません。 

彼の絵に初めて出会ったのは、これも九段下からほど近い、東京国立近代美術館でした。たしか「戦争と絵画」といった特別展だったと思います。15年ほど前か。藤田嗣次の見上げるほど大きな戦争絵画「ノモンハン」に圧倒された展覧会でした。

これほどの表現力と情熱でもってノモンハン戦争を賛美した藤田は、ノモンハン戦争は大敗北を喫したにも関わらず、あたかも日本軍の大勝利といった絵をいくつも描いたのです。絵画だけを見ていると、脳内を高らかに軍歌が鳴り響き、「ロスケなんざ、やっちまえ!」という気分に知らず知らずなってしまう。そんな大パノラマでした。

なのに、その横にこれまた藤田の「アッツ島玉砕」の大絵画が、静かに訴えかけていたように記憶しますが、これは間違いで、他の美術館で観たのを合成して覚えているのかもしれません。この絵は、ノモンハンの大政翼賛絵画とはまるで違い、愚かな人間の業としての戦争と悲惨を、これでもかとキャンパスに刻みつけるような迫力をもっていて、わずか5、6年のあいだに、いったいどういう変化があったのだろうと、考えさせられる作品です。

いずれにしろ、わたしは少々食傷気味で、げんなりしながら他の絵を流し見していたのです。

そして、ある自画像の前で、ハタと立ち止まりました。

それが、松本竣介のものでした。  

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こちらはわりと有名ですね。「立てる像」(1942年)

すでに泥沼の日中戦争から真珠湾攻撃の日米開戦を経て、翌昭和17年の自画像です。 

 この時期の松本竣介の作品は、静寂に包まれています。

これは、例えば松本の友人だった麻生三郎の自画像(1937年)と比較するとよくわかりますね。

というのも、そのときこの絵もすぐとなりに掲げてあって、それはそれで感動したのです。

かっとにらみつけた目と少し開いた唇。全体に赤みを帯びた顔や髪。何をかを言わんとしている若者の内面と葛藤がよく出ています。そのときはたぶん、こちらのほうにより強く魅かれたのかもしれません。

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でも、今はやっぱり松本竣介の静寂さの方に、なんだか安らぎすら覚えます。トシをとったということですかね。

 

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市内風景 1941年

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 ごみ捨て場付近 1942年

 

時代は戦争にどっぷり浸かっていて、世のなかには勇ましい言葉が氾濫している。ちょうど今年の8・15靖国神社、九段下近辺のように。耳の聞こえない松本竣介にさえも、届いてしまう時代の声。喧騒。罵声。怒号。あるいは、「君を守るために死にゆかん」といったような、あまりに「美しい」言葉の群れ。

それらを遮断し、「画家は腹の底までしみ込んだ肉体化した絵しか描けない」といって、ひたすら静寂に包まれた風景画や自画像を描き続けた松本竣介。

彼が、昭和16年の日米開戦直前に、「生きてゐる画家」という文章を雑誌に寄稿したことは有名な話ですね。石川達三の「生きてゐる兵隊」 (1938年)を意識して書かれたもので、松本を「抵抗の画家」と呼ばしめる元となった文章です。

これについては様々な議論があるようですが、ここには書きません。

わたしにはこの「生きてゐる画家」というタイトルですぐさま想起するのは、「生きている英霊」 のことです。ノモンハン戦争で捕虜になり、ソ連領内で生きることを選択した「英霊」たち。彼らのことはほとんど何も明らかにされないまま、今年で77年が経とうとしている。

私家版ですが、山梨の楠裕次さんという方が『私説 あゝノモンハン 生きている「英霊」を想う……』という本を自費出版されています。わたしは偶然この本を古本市場で見つけ、以来「生きている英霊」という言葉に釘づけになってしまいました。

わたしには、松本竣介の静寂さのなかから、言葉が立ち上がってくるように思えてならない。

それは声なき声であって、この「生きている英霊」の声、言葉でもあるわけですね。

 そういう言葉に耳を傾けたい。 

そういう言葉を刻みたい。

静寂のなかで。

と、まあ8月15日から一週間たった今日になって、しみじみと思うわけであります。

ちょっとカッコつけすぎましたかね。。

映画製作にのぞんでの、決意表明でもあるのですが。 

 

 

 

 

 

 


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8月15日 東京九段下の風景

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もう五日前ですが、敗戦記念の日に、靖国神社に行ってきました。

いよいよドキュメンタリー映画の撮影に入っていくわけですが、とにかく8月15日の風景だけはビデオに収めておこうというわけです。 

境内を汗みずくで歩いていると、正午になりました。

サイレンと黙祷のあと、天皇の短い演説。外を歩いていても、境内にその言葉が響きわたります。

近頃、引退を事実上宣言したその人は、「深い反省」という言葉を発し、靖国に集まる人々はしきりに「英霊に感謝し、日本人の誇りを取り戻せ!」と連呼していました。 

軍歌を愉しそうに歌っているグループもいましたね。

若者が軍服を着て国旗を掲げています。おそらく二十代の前半かな。その向こうにかなり高齢の男性がぼろぼろの軍服を着て立っていて、若者が「あの方はホンモノの予科練です」と、少し気恥ずかしそうに語っていたのが印象的です。 

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「海ゆかば」を歌っている人をあちこちに見かけます。ひとり口ずさんだり、数人で歌ったり。茶髪の兄ちゃんのTシャツにプリントされていたり。

 海ゆかば 水漬く屍

 山ゆかば 草むす屍 

 大君の辺にこそ 死なめ かへりみはせじ

こんな歌です。みな心、うちふるわせて、この歌をうたう。 

 

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この行列は右翼の街宣とはちがい、整然と行儀よく、九段の街並みを歩いていました。

「美しい日本をありがとう!」などと声援がかかります。海ゆかばを歌いながら拍手を送るご婦人もいました。

5時ころからは、靖国神社に「反天皇制」を掲げデモる「反天連」と、そのカウンター(在特会系の団体)の激しい罵声が、スピーカーで増幅されてぐわんんぐわんと響きました。 

「死ね!」「朝鮮人出ていけ!」「ケーサツは腰のものを抜いて打ち殺せ!」

などと、二時間以上がなっていましたね。 

えげつない言葉を機関銃のように連射するのですが、まわりもみんな「そうだそうだ」とうなづいている。

天皇制に反対する人間はそのくらいの言葉を投げつけられてもかまわない。そういう暗黙の諒解があるようです。

午前中から靖国にいたので、計7時間ほど、九段下周辺をうろついたことになります。人人人でぎゅうぎゅうの遊就館も時間をかけて見たし。

家に帰りつくと、どっと疲れました。

でも、すぐにブログに書かなかったのは、疲れたのもあったけど、しばらくその「意味」を、考えてみようと思ったのです。 

言葉について。

15日に九段下周辺で発せられた多くの言葉、天皇の発した言葉をふくむ、多くの言の葉(ことには)について。

そうしているうちに、ふとまったく予期していなかったイメージが頭に浮かんできました。

中学生で聴力を失った画家、松本竣介です。 

 

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『全身小説家』というドキュメンタリー映画と「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」

一ヶ月ほど前の話ですが、ツタヤで借りて、『全身小説家』というドキュメンタリー映画を観ました。

それがこれ。 

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 ツタヤでは、中身しか貸さないので、パッケージは見ませんでした。

今回アマゾンで検索し画像を見てびっくり。

「嘘もつき終わったので……、」

 というコピー(なんちゅうコピーじゃ!)と、作家井上光晴の、ひょいと手を挙げたカットです。

これでは主演の作家井上光晴が、稀代の大ウソつき作家ということになってしまいます。(そういう面がなきにしもあらずではありますが、それを揶揄するのが目的ではなかったはず)

 しかも、この映画、撮影の初期の段階で作家のガンが見つかり、当初の予定は大幅に変更、作家の最晩年、その闘病から死までをドキュメントする内容になっています。 だからこのカットは、闘病の果て、最後の年の正月に年始のあいさつに来た人たちを、玄関先で見送る作家の姿なのです。それに「嘘もつき終わったので……、」というコピー。

う~ん。どうなんだろう。考え込んでしまいます。 

もちろん、映画はそればかりではなく、作家の人生、生い立ち、家族、作品等、様々な角度で切り込んでいき、それが「全身小説家」というすばらしいタイトルになって表現されました。

 そう。井上光晴は全身がこれ、小説家なのです。嘘つきとは違う。

いや、嘘つきでもいい。そんなことよりも、作家の生きてきた昭和史、その中で書かれてきた作品群。その時代や土地の背景。そういったものをもっと扱ってもよかったのではないでしょうか。

それに地方地方で開かれていた「文学伝習所」という活動もある。それは九州から北海道、山形、長野、群馬などに拡がっていきました。

わたしの参加している作家塩見鮮一郎の「文藝トーク小屋@新宿」のようなものです。

井上光晴は伝習所を各地で開きましたが、塩見鮮一郎は、東中野、神田、新宿と場所や形態を変えてはいますが、ずっと東京で40年以上この活動を続けていますね。

それはともかく、井上光晴の活動は多彩で幅広く、執筆活動も旺盛でした。それを「嘘つき」のひとことですますのはどうなんでしょうか。

伝習所で女性を口説きまくったとか、モテ男だったとか、映画に出て来ますし、それもまた作家の一面ではあるので面白いですが、当事者はどうあれ、われわれには些末なことのようにも思います。

それでも「全身小説家」というタイトルは秀逸ですね。

わたしは、「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」という短いドキュメンタリー試作品を作りましたが、タイトルにもう少しインパクトが欲しい。

ひとことでその作家を表現するような言葉ってなかなかみつかりませんね。

ならば、「ん?なんだこのことば?」と思わせておいて、その謎解きを映画本編でする、という戦略のつもりでしたが、試作品ではうまくいきませんでした。

今後、長編を作っていく予定ですので、そこらへんをしっかり表現したいと思います。

 

 

 

 

 

 


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伝わらないことへの恐怖

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内田樹の本、『街場の文体論』を読んでいて、ふと考えました。

ものを書いたり、最近は短いドキュメンタリー映画を創ったりして、思うことがあります。

それは、「これは誰に向けて書いて(撮って)いるのか」という問いかけについてです。

 この話って、小説創作の合評の場でもよく出てくる問いで、表現されたもの、表現者に対して浴びせられる、ある種の「正当性」を帯びた問いかけなんですね。

これを問われた場合、表現者は明確に「同世代の女性」とか「中年の男性」とか、きちんと答えられなければならない。 間違っても、「特に読者(観客)は想定していません」などと答えてはいけない。

 なぜか。

それは、伝わらない表現は、表現ではないという強迫観念(あえてそう言いますけど)が、表現者に内面化されているからだと思うのです。

今日、ここで告白しますが、わたしはものを書くとき、ある一定の幅の読者(年齢、性別、地域性その他)を想定しません。基本的には。もちろん書くものの種類によっては、そういうことも必要になってくるでしょうが、基本的にはしません。

この前創った短いドキュメンタリー映画もそうでした。つい最近書いた「私小説評伝」というわけのわからないジャンルの《小説》も、読者は想定していません。

これを書くと、もっとドン引きかもしれませんが、そもそも読者を想定する必要がどうしてあるのか、わたしには正直わかりません。

おそらく、いろんな場面でわたしが人と対立するのは、ここですね。

読者なんか知るか、わしは書きたいものを書き、撮りたいものを撮る。みたいに思われている。

 ただし、ひと言付け加えますが、わたしは井上ひさしの名言、

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」

に激しく共感するようになってから、あまり難解な表現は避けるようにしています。若い頃はそういう文体に憧れた時期もありましたが、いまはまったくない。

でも、読者は想定しない。っていうか、想定する意味がわからない。

最近、映画作りのWSに参加したとき、「ドキュメンタリーの企画書を書くときは、ある一人の誰かに向けて書くラブレターのようにして書いた方が(企画が)通る」と言われました。

ふむふむ。それはなかなか言い得て妙、です。

言っていることと矛盾するようですが、それは非常に理解できます。一人の読者への情熱のラブレター。

なんだ、読者を想定してるじゃねえか!! とツッコまれそうですね。

それはこういうことです。結局、思いの大きさや熱量の問題かと。あなたにこの恋心を分かって欲しいという熱烈な感情、思い。恋は残酷なので、それでもフラれることが多いでしょうが、思いの大きさや熱さは、相手に伝わっているでしょう。おそらく。

小説や映画もそうかな、と。相手がどう思うか、ではなく、自分はこれを表現したい、書きたい、という熱量の大きさが、書き手や表現者を衝き動かす。作品に入り込んで言葉をつむぐ。カメラを回す。

それでいいんじゃないかと。 

ただし、ラブレターと同じで、表現もある種の《賭け》です。しかも、負けることの多いギャンブルだ。フラれることも、ままある。でも、それでも書く。表現する。負けることが多いからこそ、より熱烈に《賭け》に挑む。

ルーレットで、いちばん当たる確立の高い場所、赤と黒とか、偶数と奇数にしか賭けないギャンブラーなんて、面白くもなんともないじゃないですか。

いや、プロのギャンブラーはそうではないのか。地味に、勝ち続けるには、面白さなんて排除する冷静さが必要なのか。

そう考えると、どっちがいいのかわからなくなりますが、少なくともわたしは、血眼になって有り金を全部すってんてんにすってしまうドストエフスキーのような小説家が好きですし、 自分もそうありたいと願いますね。

 今、勝つというのは、作品が市場(マーケット)で、より多く商品交換されるということ。100万部売れるということは、100万回、商品として貨幣と交換されたわけですからスゴイですね。

ドストエフスキーがお金のために小説を書いたことは有名な話ですが、書かれたものを読むと、そんなことを微塵も感じさせません。彼の神に対する熱烈な情熱であふれていて、ときに逸脱するほど激しく挑戦的で、あんなラブレターを書かれたら相手もドン引きですが、思いの大きさ、深さは、間違いなく伝わるはずです。

誰に向けて書くのか。撮るのか。

あえていうなら、マーケットではなく、言葉や物語の《神》がいるとして、その超存在に審判を仰ぐようにして書く、表現する、ということなのかな。

 

 

 

 

 

 

 


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桐野夏生『バラカ』を読みました。

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 桐野夏生『バラカ』を読了。3、4ヶ月、映画作りと書き物で過ごしたので、長いものをがっつり読んだのは久しぶり。

3・11から五年。大震災、大津波、そして原発事故から5年の歳月が過ぎました。

忘れてはいけない、風化させてはならない、と人も自分も言うけれど、時間は残酷に前へ前へと流れ、過去はどんどん薄れていく。神戸の地震では姉を亡くしたので、その風化の速度は人よりも遅かったように思いますが、それでも過ぎ去った年月は、現在の時間の濃密さに勝ることはありません。

わたしはそれが辛かった。大事なものが少しずつ溶けて自分のものではなくなり、大海原に帰っていくような感覚。 悲しいけれど、ほんの少し、安堵したりもする。

忌まわしい記憶をいつまでも同じ濃さで抱えていると、人はおそらく狂ってしまうでしょう。だから、忘れることも必要。という説明もなされますね。

そうこう考えると、小説とは、なかなか結構な記憶装置なのかもしれません。

 小説『バラカ』は、福島原発事故以降のこの国の、ひとつのあり得た近未来を描いています。

「あり得た」というのは、原発事故を、現在われわれが把握している規模(本当のことは誰も分かりませんが)よりもじゃっかん大きめに設定して、関東から東北全体が広範囲に汚染されてしまったとされているからです。 

作者は、3・11以前から書き始めた長編小説を、途中から大幅に軌道修正して原発事故後の小説に、いわば強引に仕上げました。 作者の小説を読みなれている人は、おそらく「あ、この強烈なキャラは、3・11以前からのだな」「これは3・11以降に創ったキャラだな」などと、登場人物を読み分けることも可能だと思います。桐野作品がほとんど初めてのわたしでも、なんとなく分かります。

 それは、小説としてはマイナスなはずで、作者も出来ればしたくないでしょう。でも、今回は違った。書いていたものが、3・11、とくに原発事故によって、よりいっそう切実に書きたいものになったのではないか。

あるいは、3・11、とくに福島原発事故を、小説家として「なにがなんでも書かねばならない」と、腹をくくったのではないか。そんなふうに思います。

 で、読者としては、「忘れまい」とする意志や希望に反して、少しずつ忘れかけていたものが、沸々とよみがえってきた感じです。忌まわしい記憶というより、向き合わねばならない現実として。

原発事故、ですから。地震や大津波とは違う。

時間が経つと、その違いが薄れてくるのですが、この小説は、ガツンとそれを思い起こさせます。

小説としての結構がどうだとか、キャラの設定がどうだとか、結末に不満だとか、そういうことをぜんぜん言いたくならない。

強烈なストレートパンチを喰らった印象です。

この方が、効きますね。

福島原発事故。忘れるものか。

 

 

 

 

 

 

 


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塩見鮮一郎の文章修業道場「文藝トーク小屋」@新宿歌舞伎町

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いよいよ始まりますね。

新宿、文藝トーク小屋。神田にあった文藝学校から独立し、新たに新宿で再スタートします。

ホームページも構築中です。 → http://bungei.info/

※場所、日時、会費など詳細はHPをご覧ください。

上記のアドレスか「文藝トーク小屋」で検索すればトップに出て来ます。

 

もはや近代的な学校組織ではありません。そうではなく、なんですかね、強いて言えばお師匠のもとに稽古をつけてもらいたく集まる弟子の集まり、とでも言いましょうか。

 それで、「塩見鮮一郎の文章修業道場」です。

小説愛を貫いて60年の現役作家塩見鮮一郎氏が、秘伝の文章技法を惜しみなく伝授します。

基本スタイルは、参加者の事前に配られた小説(評論、詩、エッセイ、戯曲でもOK)を、参加者全員で合評し、塩見氏が最後に講評する感じ。

そして、今回の新宿再スタートから、古典作品を読んでいくミニ講義もあります。

第1回は、物語の元祖『竹取物語』です。

この物語をいろんな角度で読み込んでいくのも楽しいですが、道場では「文体」に注目するとのこと。

明治維新以降、日本語は外国語の影響を受けてずいぶん変わってしまった。江戸以前と比べると、よいことも、そうでないことも現代の日本語にはある。 (塩見鮮一郎『江戸から見た原発事故』など参照)

そこで竹取物語の「文体」に注目してみようということです。 

どんな話になりますか。今からとても楽しみです。 

 テキストは、黄色の岩波文庫。

 

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第1回は、4月7日です!!

 

 

 

 


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伊勢神宮の内宮と荒祭

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実家に帰省ついでに、伊勢神宮へ行って来ました。

現在製作中のショートドキュメンタリーの撮影です。

いや~、すんごい混雑。人、人、人。

伊勢神宮、意外に撮影に関しては寛容で、ふつうは嫌う三脚を使っての撮影もOKでした。

しかし。やはり撮影が許可されるのは、本殿に向かう階段の下まで。カメラを抱えて階段を上がり、最後の鳥居をくぐったところで警備員にカメラを止められました。理由を問うと、「非常に神聖な場所なので」という答え。

伊勢神宮の本殿は、四重の垣根と建築物で囲われているので、その外側から撮影しても、なにも映らないんですけどね。

それでもたいていの日本人は、この場所に、現在の皇室からさかのぼることはるか神話時代につながる天照大神が祀られていることを知っています。だからなんとなく、「神聖な場所なのでダメです」と言われると、そんなものかなと思ってしまう。 

ところが外国人は、日本語を読めなかったり、そもそも伊勢神宮についてあまりよく知らない。

それで、自撮り棒をめいっぱい伸ばして、本殿の前で彼女とふたりでニッコリ、なんてやってます。警備員も大忙し。

さて。本殿をあとにして、いつものように別宮、荒祭宮に寄り道します。

アマテラス大神の荒御魂が祀られています。

「あらみたま」ってなんでしょうね。

『中臣祓訓解』に、伊勢神宮の内宮別宮、荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると書かれているそうです。

おお、セオリツヒメ。

祓戸四神のトップバッターにして中心的女神。

福島で今もダダ漏れの放射性物質を無化するため、キヨメの女神として汚染水を祓い清める役割を担わされているのか。

伊勢神宮は「日本人の心」、なのであれば、この荒祭宮=セオリツヒメもまた、裏返した「日本人の心」、である気がしますね。

 次はぜひ、国道6号線を北上して、福島第一原発の20キロ圏内を撮影しにいきたいです。

裏返しの「日本人の心」が見えるかな。

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3月3日 ブログ 復活します! 浅草弾左衛門全3冊+資料篇

2015年11月20日に池波正太郎の記事を書いてから、諸事情によりブログを休止していました。

しかし、今日から再開します。よろしくお願いします。

 先日、久しぶりに、台東区橋場の皮革産業資料館に行ってきました。二年ぶりかな。

ここの資料展示室。とても充実していて、長い時間楽しめるのですが、当時なぜか弾左衛門の展示が、塩見鮮一郎『浅草弾左衛門』の本しかなかった。

副館長の稲川實さんの著書『西洋靴事始め』(現代書館)を読むと、ちゃんと弾左衛門について書いてある。

しかし、現存する資料が極端に少ない、皆無に等しいと書かれていました。

二年前訪問したとき、写真の『浅草弾左衛門』ハードカバー版を見つけました。

おお、あるじゃない。と思って嬉しくなった記憶があります。でもそのとき、一冊欠けていたんですね。今回いくと、ちゃんと四冊(全三巻+資料篇)そろっていました。

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それどころか、置いてあった冊子『かわとはきもの』を読むと、弾左衛門の資料を探していると書いてある。弾左衛門の記事も連載が続いているようです。展示の大きなガラスケースには、かなりのスペースを空けて、そこにわたしには見慣れた弾左衛門の写真が大きく伸ばされて、どーんと置いてありました。

皮革産業資料館。今後の展開が楽しみになってきました。


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池波正太郎『剣客商売』を読んでみた。

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ワタシが利用する墨田区の図書館では、入り口に小さな本棚があって、館内整理のための処分本いわゆる「どうぞご自由にコーナー」があります。先日そこに、池波正太郎の『剣客商売 十番斬り』(新潮文庫)が置いてありました。

実はワタクシ、あまり時代物は読んできませんでした。

『浅草弾左衛門』や『車善七』を読むようになってようやく、少しは時代小説の幅を広げてみようと思ってはいますが、藤沢周平までが精いっぱい。みんなが大好き池波正太郎については未読だったのです。

で、家に持ち帰って読み始めました。

あれ? なかなかけっこう面白いじゃん。

上野、浅草、鳥越、深川、本所。よく知っている江戸の町が舞台なのも、読んでいて楽しい。

作者池波さんは、浅草生まれの浅草育ち。生れたのは待乳山聖天の近くで、浅草永住町、今の住所でいえば元浅草で育った下町っ子です。

でも、だとすると。。

塩見鮮一郎を読んできたワタクシとしては、待乳山の近くを流れる山谷堀の向う側、弾左衛門の屋敷がある「囲い内」、浅草新町(しんちょう)をどうしても思い浮かべてしまいます。

池波正太郎は、浅草新町のことをどこかで書いているのだろうか。

吉原は書いたに違いありませんが(まだ確認してませんが)、おはぐろどぶの向う岸にへばりつくように車善七の邸宅や溜(ため)があったことは書いたのかな。

気になります。

とりあえず、『剣客商売』の三巻まで読みましたが、出て来ません。

ぜんぶ読破はちとナンだし、ならば他力本願で、こんな本をぱらぱらとめくってみました。

以下は、アマゾンの説明。 

『鬼平』は軽いから強い。
社会が個人を見捨てつつある今の日本には、池波正太郎が描く、「世間」というセーフティネットによって誰もが「自前」で生きていける社会が必要ではないか。池波作品の「自前の思想」を読み解く!

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田中優子さんが、ときおりズバリと佐高を切り捨てるときがあって、小気味よい。

あっという間に読み終えましたが、浅草新町などに言及はなし。

やはり書かなかったのか。書けなかったのか。書く気はさらさらなかったのか。

次は鬼平を読んでみるか。。 


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文春新書『戦後の貧民』を読んでみた。その2

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塩見鮮一郎著『戦後の貧民』です。

読書会、さんぽ会もあります。

当ブログでご案内。 ⇒ http://shiomi-senichiro.blog.so-net.ne.jp/

アマゾンにレビューなどしてみました。

ここにものっけておきます。

帯に「闇市」「孤児」「赤線」とあるので、漠然とイメージしながら本書をひも解くと、それらが語られる大前提として、序の章「占領 occupied」があった。

そうなのだ。8月15日の敗戦からわずか15日後、30日にマッカーサーは厚木飛行場に降り立った。これから戦勝国アメリカが、この敗戦国日本を占領(occupy)する。主語が我々日本人なら、アメリカ人に占領される(occupied)のだ。

そして9月2日、ミズーリ号艦上で無条件降伏文書の調印式。その場所にマッカーサーはこだわったと、作者塩見鮮一郎は書く。(塩見著『江戸から見た原発事故』に詳しく書かれている)

つまり百年前のペリーの艦隊が東京湾の奥深くに侵入し、ズドンと大砲を打って恫喝したあの砲艦外交に倣ったというのだ。以後、占領軍は去っても、その状態は変わらない。そして沖縄に占領軍は居続け、今にいたる。

沖縄の人にとってそれは常に「現実」だが、沖縄以外の「日本」にいると、そのことを忘れがちになる。

本書は「闇市」「パンパン」「赤線」「戦災孤児」など、主に被占領時代(アメリカに占領され主権を奪われていた時代)の庶民の苦しい生活、最底辺の生活を描写していくが、その背景にいつも占領軍がある。それが想像しづらいなら、現在の沖縄の「現実」を知れば容易になるだろう。P98に(戦後の日本で)「すさまじい数の暴行強姦があったのだ」と書かれるが、その真っ只中で生きなければならない。考えただけで身の毛がよだつ。

本書には、二つの歌謡曲が紹介されている。
菊池章子「星の流れに(こんな女に誰がした)」と「ネリカン(練馬鑑別所)ブルース」だ。
前者は戦争未亡人、後者は戦災孤児と関連する。両方ともYouTubeで聴けるので、ぜひ聴きながら読んでほしい。

P109に「歌謡曲が寄るべない最下層の女を主人公にし、その感情によりそい、あたたかく鼓舞した時代もあったのだ」と書かれるが、まったくもってその通りだ。隔世の観がある。ノスタルジーに溺れる必要はないが、こういう時代があったということを、若い人が知らないのなら、本書を読むことで少しでも知ってほしい。

作者がこの二曲を選んだのが、なんとなく分かる気になってくるのは、第二章、三章で、作者の父親がノモンハンで戦死したこと、つまり母親が戦争未亡人だったこと。自分自身が戦災孤児に近い境遇で育ったこと。などが、詳しく書かれてあるからだ。

だからこそ本書の最後の最後の一文、「どれほど無念であったことか」に、万感の思いが込められていて、読者の胸を打つ。

本書で貧民シリーズの完結編となったようだ。

明治を描いた『貧民の帝都』、そしてタイトルそのまま『中世の貧民』『江戸の貧民』と、時代ごとにそれぞれ違った書き方をしていてどれも面白いのだが、本書『戦後の貧民』は、現存する多くの人が経験した時代であるだけに、また作者の実体験が盛り込まれているだけに、言葉に力がこめられている。怒りといってもいい。あまりそういうことを好まない作者のようなので、声を小さくして、付け足しておきたい。


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「文春新書新刊『戦後の貧民』を読み、歩き、呑む」会

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塩見鮮一郎「貧民シリーズ」最終刊、『戦後の貧民』がとうとう世に出ました!

刊行順に『貧民の帝都』『中世の貧民』『江戸の貧民』と続いたシリーズも、これでおしまいになるそうです。だからでしょうか、今回の『戦後の貧民』は、力の入った内容になっていると思います。なんと言っても、作者自身が経験した、戦後のドサとクサの時代ですから。

それで、イベントを企画しました。

ベタなコピーですいませんが、「『戦後の貧民』を読み、歩き、呑む」です。

要は、本をサカナに酒を飲むわけでございますが、せっかくなので、本に書かれてある、「闇市」「街娼」「ゴールデン街」などを、作者といっしょに歩いてみようと、思うわけです。

本にも紹介されている昭和歌謡の名曲、「星の流れに」ミニライヴもあります。歌は、会場のゴールデン街「ナベサン」にゆかりのあるシンガー、宮原Panda裕子さんです。

日時:2015年10月24日(土)

時間:15時集合(新宿アルタ前)

日程: 新宿闇市跡散歩 → 16時半頃からゴールデン街「ナベサン」にて読書会、サイン会、ミニライヴ「星の流れに」 → 19時頃から、歌舞伎町「上海小吃」で二次会

費用:「ナベサン」フリードリンク+参加費で2500円(飲まない人は2000円)。二次会は別料金。

「ゴールデン街・ナベサン」で検索してみると、こんなことが書かれていました。

お店は41年目の古いお店です。ゴールデン街の中でも古株になってしまいました。店内は往時を偲ばせる様子を保っています。3階は開かずの間ではありますが、青線の頃そのまま。荷物もそのまま…。ふとんも敷いてあります。関心のある方は是非一度のぞいてみてください。

え!! マジすか。。興味ありますねえ。

そんなこんなのにぎやかなイベントになればと思います。

ご参加の方は、コメントをくださるか、メール(w-satoshi●sea.plala.or.jp ●を@に変換)にてお願いします。


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塩見鮮一郎『戦後の貧民』を読んでみた。

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 文春新書新刊『戦後の貧民』です。

戦後っぽい、昭和な自宅の押し入れ前で撮ってみました。

中身を少し紹介すると、

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第一章「大移動のはじまり」

第二章「米兵慰安婦と売春」

第三章「さまざまな傷痕」

この三つの章でぎっしりと、敗戦後数年でおきた「史上最悪の日々」(まえがき)が語られます。

しかも、そのすべてに「占領」という背景があった。そのことは、序の章「占領」で詳しく書かれます。

この本を読んで、突然思い起こした風景、人物があります。

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 横浜のメリーさん。

知っている人も多いんじゃないかな。『ヨコハマメリー』というドキュメンタリー映画にもなりました。

以下は、映画のHPから。

『歌舞伎役者のように顔を白く塗り、貴族のようなドレスに身を包んだ老婆が、 ひっそりと横浜の街角に立っていた。本名も年齢すらも明かさず、戦後50年間、 娼婦として生き方を貫いたひとりの女。かつて絶世の美人娼婦として名を馳せた、 その気品ある立ち振る舞いは、いつしか横浜の街の風景の一部ともなっていた。 “ハマのメリーさん”人々は彼女をそう読んだ。』

実在したこの女性は、95年の冬、突然横浜の街から姿を消すのですが、その後の行方は映画に詳しく出て来ます。

わたしは、94年から95年、何度もこのメリーさんを見かけました。横浜駅の西口広場でした。戦後50年の横浜時代、最晩年のメリーさんということになります。映画では、その後、故郷へ帰っていったとのことでした。

いっけん、ホームレスふうに見えるメリーさんですが、身なりや立ち振る舞いがどこか違う。「なんなんだろう、この人は」と、何度も立ち止まって、彼女を見つめていた記憶があります。

今の横浜駅西口はさらにまた開発されてしまいましたが、その前の西口、メリーさんがいた西口の風景も「戦後」を一掃した小ぎれいで清潔な街でした。

そう、メリーさんひとり、「戦後」あるいは「敗戦」、もっといえば米軍米国による「占領」を、全身で表現していたのかもしれません。

そんなことをふと、思い出したのも、『戦後の貧民』の第二章、「米兵慰安婦と売春」を読んだから。

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これは、溝口健二の映画『夜の女たち』です。

戦後、メリーさんをはじめ、このような女性がたくさんたくさん、街頭に立って春をひさいだ。

鬻(ひさ)ぐ。言うまでもなく、「売る」ということです。春を売る=売春。

本書の108頁に出て来ますが、こんな歌謡曲が巷に流れていた時代がありました。

菊池章子が歌った「星の流れに」。

https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag

「こんな、女に、誰がした~」で有名な歌ですね。

本来のタイトルはそのまんま「こんな女に誰がした」だったのが、GHQがクレームをつけてきて変更せざるを得なかった。でも、タイトルがソフトに変わっても、歌のインパクトは変わりません。

塩見鮮一郎も次のように書いています。

『歌謡曲が寄るべない最下層の女を主人公にし、その感情によりそい、あたたかく鼓舞した時代もあったのだ』(109頁)

あゝ、その通りですね。そんな時代もあったのです。

歌詞を紹介しておきましょう。

   星の流れに 身を占って
  何処をねぐらの 今日の宿
  荒(すさ)む心で いるのじゃないが
  泣けて涙も 涸れ果てた
  こんな女に誰がした

  煙草ふかして 口笛吹いて
  当もない夜の さすらいに
  人は見返る わが身は細る
  街の灯影の 侘びしさよ
  こんな女に誰がした

  飢えて今頃 妹はどこに
  一目逢いたい お母さん
  唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
  闇の夜風も 泣いて吹く
  こんな女に誰がした

『戦後の貧民』第二章だけで、こんなに感想があふれてしまいました。

ほんとうに、たくさんのことが書かれています。

闇市や戦災孤児のことも書かれています。

塩見氏自身もノモンハンで父親が戦死し、母子ともども困窮した戦後の時代を振り返っています。

読んでいて、ドキリとするのは、例えば以下のような記述。

『やせほそり、背も低く、精神もぐちゃぐちゃにされた世代、わたしは「身体に戦争を刻印されて生きて行く世代」であった』(160頁)

そして、第三章の最後、以下のような言葉が書かれます。

『タケノコ生活という言葉があるように、剥がされるものはすべて剥がされた。その数年を、わが母をふくめて、だれもがおのれひとりの思想にすがって日々を律し、身を粉にして働いた。日本史上もっともすさまじい貧困のなかを、どうにかくぐりぬけたのは奇跡としかいえない。あれから七十年、老いたわたしはいま、それらの日々を「聖」なるものとしてすなおに「祝」したい。災禍をまねいた支配層への怒りの言葉は自重して、それよりも、戦傷や伝染病や餓えに抗しきれなかった老若男女に合掌してペンをおきたい。どれほど無念であったことか。』(203頁)

これは決して誇張ではなく、わたしは一読し、身体も精神もしばし硬直し、動けませんでした。わたしたちは、このような戦後の歴史の延長線上に立っている。それを忘れないためにも、本書を読むことはたいへん有意義であったと思います。安保法案云々を考えるためにも、本書は必要不可欠になるでしょう。

 この三章の末尾は、おそらく「まえがき」の次のような言葉に呼応しています。

『恋人をさしだし、子を兵士にした戦さが、正義のかけらもなかったことだ。無意味な死を理解するのが、どれほど個体にとっておそろしいことか、どうか想像してみてください。』(5頁)

無意味な死。悲惨な戦後の生活。それはほんとうに恐ろしいこと。しかし、そこから逃れるすべはなかった。向き合うほか、なかった。だから、「星の流れに」のような歌が、巷に響きわたる。

いまはどうでしょう。

ひとりがんばっていたメリーさんもいなくなり、敗戦の名残りはすべて消し去った。

すると、無意味を意味に変え、正義を捏造する人々が出てくるのはなぜなのでしょうね。

今でも、「占領」は続いているかもしれないのに。


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文春新書新刊『戦後の貧民』

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ついに出ましたね。

塩見鮮一郎、貧民シリーズ第四弾。

アマゾンではこんなふうに紹介されていました。 

『70年前、日本各地に広がっていた、あの光景。敗戦後に現れた闇市、赤線。占領軍が闊歩する街中で、庶民は、孤児たちは、いかに暮らしていたのか? 塩見「貧民シリーズ」最新刊。』

この写真には写っていませんが、帯にはこんなコピーがあります。 

『焼け跡に現れた「闇市」「孤児」「赤線」。哀しくも逞しく生き抜いた70年前の日本人たち』

わたしのもとにも、もうすぐ届くはず。

すぐに読んで、「『戦後の貧民』を読み歩く会」というイベントの企画します。

日時だけは決まっていて、10月24日(土)になります。

新橋あたりになるのか。

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今年は戦後70年。8月頃には様々な特集番組報道が、新聞やテレビでありました。

書籍では、

白井聡『永続敗戦論』

内田樹・白井聡『日本戦後史論』

孫崎享『戦後史の正体』

などなど、多くの戦後史関連の書を読み、「戦後70年」について、認識を新たにしております。

だから、この『戦後の貧民』は、とても楽しみにしていました。

塩見氏の「貧民シリーズ」は、

中世の貧民

江戸の貧民

貧民の帝都(明治)

戦後の貧民(昭和)

時代順に並べるとこうなります。ここまで続くと、なんだか次を期待してしまいますねえ。

酒呑み話で、「現代の貧民?」「いや、古代の貧民でしょ」などと勝手に盛り上がってましたが、個人的には「東北の貧民」あるいは「坂東の貧民」などに興味があります。

「貧民」というと、見下しているように聞こえるかもしれませんが、塩見氏の「貧民シリーズ」を一冊でも読んでいただければ、その誤解はすぐに解けますね。

そもそも、戦後のいっとき、誰もが貧しかった時代がありました。昭和20年の敗戦から、東京オリンピックあたりまでか。

でも、貧しい時代が、実は幸福だった。映画『三丁目の夕日』が人気なのは、そのことにみな、薄々気がついているのでしょう。

とまれ。

『戦後の貧民』の到着が待たれます。

 近いうちに、また書きます。


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もう一度『江戸から見た原発事故』、塩見鮮一郎の本

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塩見鮮一郎著『江戸から見た原発事故』現代書館、2014年1月 

昨年1月に出たこの本を、もう一度読み返しています。

というのも、最近、平川克美著『小商いのすすめ』を読んでいて、以下の一文でふと活字を追う目が止まってしまったのです。

「この震災以前と以後では、わたしがものを書いたり考えたりする立ち位置が変わってしまった」

こういうフレーズを、当時何度も目にしました。わたし自身も使ったと思います。

平川氏にも、先の本の原稿を書いていた途中に、3・11が来た。凄い衝撃だったと書いています。

直接被害に逢われた方々は違うかもしれませんが、平川氏も我々も、特に福島原発事故に強いショックを受けた。そして、中途の原稿を書き換えざるを得なくなったそうです。

そう。そうなのでした。「この震災以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」のです。

物書きの平川氏の場合は、「わたしがものを書いたり考えたりする立ち位置」が変わった。

わたしの友人の女性は、3・11の半年後に出産したのですが、あれ以来ずっと、子どもに食べさせる食品はなるべく関西以西のものを使っていると言います。 過剰だ、エゴだ、という意見もあるでしょうが、子どもを守るという使命感が、一貫して原発事故後の思考と行動パターンを維持させているのでしょう。

明日で、あれから4年半になります。

わずか4年半。もう4年半。たった4年と半年。

なんとでも言えますが、もしかすると、わたし自身もふくめて世の中全体が「この震災以前と以後で、○○が、変わってしまった」ハズのものが、すっかり元に戻ってしまったのではないでしょうか。

安保法案だ沖縄辺野古問題だ、やれ憲法改正、それ秘密保護法、オリンピック関連諸問題などなど、なんとも世の中はめまぐるしく動いていて、声高に反対したり、テキの思考や志向を分析したり、昭和史を読み返したり、忙しくアタマは巡っているはずなのに、いつの間にか、です。いつの間にか、元に戻ってしまった。

それに、これもわたし自身がそうなのですが、ものごとの上っ面だけを見て、考えたり分析したりする傾向がどんどん強くなっている気がして、愕然としたのでした。

上記に挙げた諸問題は、軍事力に支えられた国力を増強し、さらなる経済の発展をめざす。という明治維新以降の思考と行動パターンを、またも繰り返そうという勢力が、あれでもかこれでもかと、くり出してくるものです。

それらに対抗しているうちに、なぜかこっちまでが、テキの思考と行動パターンを模倣してしまっている。

まずいぞ。。

でも、こういうことって、ママあること、なのかもしれませんね。

ライバルに対抗しているうちに、だんだん相手に似てくる、とか。

でも、それではイケナイ。

平川克美は、手の届く実質経済から、今のグローバルな経済状況を批判して乗り越えようと模索しています。

例えばこんな本も興味深かった。『消費をやめる』

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平川氏の本は刺激になるのですが、いちおう文学畑を歩いてきたわたしとしては、もう一度『江戸から見た原発事故』を読み返して、「コトバ」という観点から、この「震災以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」問題を考え直してみたいのです。

それは、「明治維新以前と以後で、〇〇が、変わってしまった」問題、でもあるのですね。

〇〇に入るのは、ひとまず「コトバ」になるのでしょう。

言葉が変われば、思考も志向も、変わる。行動も変わる。

では、変わる前の我々のコトバとは?

 『江戸から見た原発事故』を読みながら、じっくり考えます。

続く


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土地のこと、旅の終わりの養老

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GWの旅のことを書いているうちに、もう8月になろうとしていますね。

神戸から大阪経由で、旅の終点養老にやって来ました。
この日は五月晴れ。向うに養老山脈が見えます。あの山並みの中腹に、有名な「養老の滝」があります。

そういえば、関東に来て驚いたことにひとつは、「養老の滝って知ってる?」と聞くと、「千葉のでしょ」と言われることが圧倒的に多いこと。滝の清水が酒になる養老伝説も、意外と知られていません。知っていても、「へえ、それって岐阜にあるんだ」と返ってきますね、たいてい。

ついでにいえば、岐阜県に実家も本籍もあると言うと、「岐阜といえば高山でしょ」ときます。
こっちの人は、高山くらいしかイメージしないんですね。岐阜。超マイナーで地味なイメージ。

ちょっと前まで、岐阜出身といえば、中日のかつての名選手高木守道とか、巨人Vナインの正捕手で西武の監督を務めた森祇晶とか、やっぱり超地味地味観は否めません。
最近、金メダルの高橋Qちゃんとか、ようやく明るいキャラが増えましたけど。

そんなことはさておき、実家のある養老の話です。
かつて、じいちゃんばあちゃんの時代まで農家でしたから、母屋があって納屋があって、ついでに倉庫代わりに使っていた蔵と離れがある典型的な農村の家でした。
築百年近かった母屋と父親の勉強部屋として作った離れは、十年前に建て替え、ずいぶん立派な家屋になっています。


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村はずれの畑で養老山脈を眺める父親。

昭和11年生まれにしては兄弟が少なく、姉ひとりしかいません。農家のひとり息子長男坊。しかも小学生のとき大病をして、約一年間寝たり起きたりの生活でした。だから本ばかり読んでいた。勉強も出来るってんで、じいちゃんが張り切って離れを建てたのでした。
それが功を奏したか、京都の大学まで行って、結局そこで教員になり、実家の農家を継ぐことはありませんでした。
18で家を出て、72で私立大学を退職するまで、養老に帰ることはなかった。住むことはなかったという意味ですけど。


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これが母親。
こんな農家のばあちゃんみたいな恰好をしていますが、父親との結婚前は、名古屋の女子大を卒業したバリバリのお嬢さん。キリスト教徒でもあります。女子大時代、旅先の京都で父親が下宿しているお寺に泊まったのが、運命の出会いとなりました。
だから、どうしても養老に住みたがらない。
今は、名古屋の郊外にあるキリスト教系のホームと、養老とを行ったり来たりの生活をしています。

ところが、最近体調を崩した父親が、医者に「養老にいれば体調はよくなる」とズバリ指摘され、養老にいる期間が長くなったそうで。女房に付き合って、長く養老に帰ることはなかったけど、やっぱり生まれ育った土地が一番、父親にとっては良いんですね。
小学生のときも病気がちでしたが、30代で二度大手術を受けて腹を切り、72のとき腹部動脈瘤破裂で死にかけた。その父親が、ここのところずいぶん元気になったのは、養老の土地と水と空気が合うのだと思っています。

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その土地のことを書こうと思ったのでした。

村の中には、こういう空き地がいっぱいあります。
今回、両親に引っ張り回されて、ひとつひとつ叩き込まれました。
村の中に十数か所、ネコの額ほどの私有地があるというのです。初めてそんな話を聞きました。

小さな畑を作るくらいしか利用できない土地。畑さえも出来ない荒地もありました。
「なんでこんな土地が、うちのものになってんの?」と聞くと、驚く答えが返ってきた。

「わからん」

へ?
わからんって、ああた。どーゆーこと?

でも、じいちゃんもひいじいちゃんも、大切に守ってきたのだそうで。
「俺が死んだらお前が守るんだぞ」
って言われてもねえ。畑でトマトでも作ろうかしゃん。。(やるわけねえな……)

父親もよく分からないけれど、なんでも、明治になったばかりの頃ですから、私の祖父母の祖父母の時代だと思われます。働き者の祖先が、農民として必死に働いて、村の中のネコの額を、ひとつひとつ買い取っていったそうです。なんのために? と父親に聞くと、やっぱり答えは、

「わからん」

う~。肝心なことは何もわかんないのか。


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唐突ですが、最近、赤坂真理のこの本を読みました。
『東京プリズン』で賞をいっぱいもらった赤坂真理。その勢いそのまま、日本戦後論を語っています。
その中に、こんな言葉がありました。

『高度経済成長期とは、人が私有を追及するために共有空間をなくしていった過程であったとも言える』

第三章、「消えた空き地とガキ大将」に出てくる言葉です。ドラえもんのジャイアン論の章で、これがなかなか面白い。
ドラえもんといえば、空き地にピラミッド型に積まれた三本の土管ですね。それがなくなっていった1960年代の話です。

平成になって、すっかり「人が私有を追及する」のが当たり前の世の中になりました。
でも、かつては違った。空き地は「共有の場」だったし、そもそも誰のものでもない土地は、いたるところにありました。すべてが商品と化したのは、最近のことです。でも、その流れは、明治維新とともに始まった。

『アメリカの脅迫から日本の近代は幕をあける』

これは塩見鮮一郎『解放令の明治維新』の冒頭の一文です。
この数行後、

『このときから日本はアメリカの恫喝を受けつづけることになる』

という言葉に接続します。
この明治維新観と、敗戦後のアメリカ占領時代を引きずった戦後の日本。
結局、近代の日本は、アメリカによって、アメリカに従属することで生き延びてきた。150年も。

なんでこんな話をしているかというと、私の祖父母の祖父母の時代の養老でも、近代が幕をあけ、それと同時に土地の私有が始まった。150年たっても畑ぐらいしか利用価値のない土地で、その意味では予想は外れましたが、ひいひいじいちゃんは、先見の目があったのかもしれません。せっせと働いては、ネコの額の土地を私有化していったのだから。

父親が元気になったのは、養老の土地と水と空気が合っているからだと、先ほど書きましたが、「土地と水と空気」は、人間にとってもっとも大切なもので、本来は共有の財産です。それが商品化されていったのが近代150年の歴史ですね。アメリカに従属し運命共同体として生きた150年。

奇しくも、父親の大学での専門分野は「アメリカ文学」でした。細かく言うと、黒人をテーマにした演劇を研究してたそうで。今も離れの書斎の本棚に、「テネシー・ウィリアムス」とかが、ホコリをかぶって放置されてます。

でも引退してからは、「英語なんてつまんない。オレ、短歌で賞を取るぞ! 」などと言って張り切ってますね。生まれ故郷の養老で、短歌をひねりながらの余生がよほど肌に合っているみたい。
近代人の母親に引きずられ続けた人生でしたが、最近はどうも様子が違うようです。

そういえば、父親は大学時代英文学専攻でしたが、民話創作サークルに入り、自分で創作民話を書いていました。
京都に出て、すぐに養老が恋しくなったのでしょうか。
大学を卒業し、いったんは高校の教員になりますが、一年で嫌になって退職、大学院に舞い戻ります。内気な性格なので、研究者がいちばん自分に向いていると思ったのでしょう。職業選択のため、英文学の世界に入った。そういった面があったのかもしれません。

でも、今や養老で短歌です。
母親に付き合って、教会に行ったりもしますが、キリスト教に入信するつもりはないみたい。

私も、だんだん養老という「土地と水と空気」が自分のものになりかけている気がします。
若いころは、母親の実家がある愛知県刈谷市のほうにシンパシーを感じていたのですが。

こうなったら、ひいひいじいちゃんの残してくれたネコの額で、トマトでも作ろうかな。
ん~、やっぱ、まだトマトは無理かな。。






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岡山、神戸、岐阜への旅 その7

ゴールデンウィークの旅のことを書いていて、はや7月になってしまいました。。

弾左衛門のお墓の写真も撮ったし、旅の目的はほぼ終了。
あとはプライベイトな用件です。ま、全部私的な用件ですけど。
つまり、すべて、誰に頼まれた訳でもないってことっす。

とはいえ、これから訪ねるのは、やや感傷的になる場所。

知る人ぞ知る、このブログの「神戸 1995.1.17」を、 第8回で中断してますが、ここに来てから続きを書こうと、あたためておったわけです。

なので今日は、さらっと。
いずれ第9回で詳しく書きます。


ここは神戸市東灘区魚崎のとある場所。
下の写真、右側の建物が、姉の家のあった跡地に建った高齢者のホームです。
デイケアもやってるようですが、写真部分は住宅のようですね。

左側に写っている石垣は、震災当時もあった立派な個人住宅のもので、東灘区には珍しい(失礼!)邸宅でした。大邸宅とはいかぬまでも中邸宅くらい。
そういう住宅は、地盤が悪くともしっかり建っているんでしょうか。
周囲の住宅がのきなみ倒壊・全壊したのに、この邸宅は、しっかりと震災前と変わらず建っていました。うらやましかったな。。

とはいえ、今回来てみたら、新建材のモダンな建物に変化していました。前はオール木造のシブいお家だったのです。味わいのある、粋な邸宅でした。さすがに老朽化したのでしょうか。

でも、考えてみたら、同じ木造住宅なのに、きっと大工さんの腕がよかったのでしょうね。
まあ、たっぷりお金もかけてあったのでしょうけど。

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もっと寄るとこんな感じです。
自転車が置いてあるあたりが、おそらく姉の家の台所付近だったと思います。
亡くなったのは、そこから二、三メートル内側に入ったところ。


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今はこんなに立派なホームが立っていますが、姉の家は築50年近い木造住宅でした。
戦後すぐに建てられたものなのかもしれません。
一軒家(二階建て)に玄関をふたつ付けて、二世帯が住めるようにした住宅。
戦後の住宅難で、急ぎホイホイと簡易的に建てたのかもしれません。
同じタイプの住宅がいくつか建っていましたが、すべてペシャンコでした。

このタイプ、関西に多いですよね。アパートふうに二階建て数軒が連なってたりするやつ。
なぜか、関東ではあまり見かけません。


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どういう経緯で、住宅跡地にホームが建っているのかはわかりません。
たしか、借地権だけで、五十年近く住んでいたはずなので、みんな手放したのでしょう。
ホームの方のご厚意で、このようなものを造っていただきました。
私にとっては、これが姉夫婦のお墓になります。わけあって。。


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あれから二十年。
生きていたら、姉も50歳になります。夫は52歳か。
もう想像もつきませんね。あ、自分と同じような感じと思えばよいのか。。

震災前の魚崎の記憶がほとんどありません。姉の新婚家庭に、1度しか遊びに行かなかったし、それ以外に神戸を訪れたことがなかった。

それでも、その1度だけのかすかな記憶は、まだ脳裏にちらりと張り付いています。
まだ高架式でなかった魚崎駅を降りると、古い商店の寄り集まった市場のような場所がありました。長靴を履いた魚屋のおっちゃんとか八百屋のおばちゃん、肉屋のコロッケのにおい、小さな花屋さん。そんなこじんまりした、薄暗い、でも人情味あふれる市場でしたよ。

姉の家の前は土の路地で、猫が軒下で日向ぼっこしてるような感じ。
それを踏みしめて、姉の家の玄関のチャイムを鳴らした。
ガラガラガラって音がして、新婚の姉が迎えてくれました。和服でもしっくりくる雰囲気。
家の中に入ると、台所は土間になっていてびっくり。井戸も奥にありました。
もしかしたら戦前からの建物なのかな。土間に井戸ですから。

そんな路地や建物があったことなど、もはや信じられないくらい、周囲の風景は一変しました。
神戸はどこも、似たり寄ったりなのでしょうけど。

そういえば、かつてここにあった姉夫婦の家は、夫(私からすれば義兄)のオジが釣り好きで、もはや常住はしてなかったのですが、釣りをするときのねぐらとして使っていたらしい。それを、若夫婦が安く借り受けたとのことでした。

魚崎という名前のとおり、昔はすぐそこが海岸線。
戦後しばらくでも、そうだったのでしょう。
釣り好きのおじさんにとっては、最高のロケーションということですね。

魚崎。となりは住吉。
海の匂いがします。

今度来たときは、海の方まで散歩してみようかな。
今は、六甲ライナーに乗らないと無理か。。
海も遠くなりました。















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岡山、神戸、岐阜への旅 その6

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神戸にやってきました。
岡山からの経路は端折って、ハイ、いきなり神戸市東灘区に到着です。

南魚崎村と読めますね。六甲山に向かって撮っています。
映ってませんが、右手に六甲ライナーと住吉川があります。
この角を曲がって、旧住吉村に入りました。
しばらく歩くと、住宅街の中、四角に区切られた墓地があります。
探していたのは、これ。

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正面には「南無阿弥陀仏」としか彫られていませんが、この墓石の乗っかっている台座のところに、「弾」の文字が読めます。

そう。これ、第十三代弾左衛門こと、弾直樹さんのお墓なんですね。彼はこの住吉村の出身なのです。江戸、浅草にもお墓がありますが、故郷であるこの地にもあります。

小説『浅草弾左衛門』では、「第一巻 天保青春篇」で、住吉村における弾直樹の少年時代(幼名は小太郎)が描かれます。
住吉村のところをちょっとだけ引用すると、


住吉村は、御影村と魚崎村にはさまれ、南北に長い。七ヶ町からなっていて、そのひとつ、中ノ町だけが皮多だ。(小学館文庫『浅草弾左衛門 第一巻』67頁)


皮多とは、江戸における穢多身分のこと。
今でも阪神神戸線の駅は、大阪に近い順でいうと、魚崎、住吉、御影と並んでいますが、江戸時代は、これがそのまま村名だったのですね。
その住吉村の「中ノ町」については、この本から引用してみます。


弾直樹の写真.png


『弾左衛門とその時代』の第三章。「弾直樹の生涯(小伝)」から


 中ノ町は古くからひらけた土地で、四世紀中ごろに建てられた本住吉神社があり、求女塚(東)と呼ばれる前方後円墳もある。いまの住所でいえば、神戸市東灘区住吉町一丁目である。
 住吉村は、維新直後のころ、五百五十戸、二千人少しが住み、山田町、空町、西町、茶屋町、吉田町、中ノ町、呉田町の七ヶ町にわかれていた。中ノ町が被差別部落で、八十八戸あった。
 小太郎が生まれたのは、ここである。当時は摂津国に属し、菟原郡灘住吉村中ノ町であった。


小説『浅草弾左衛門』は、ここ住吉村中ノ町で生まれ育った小太郎少年に、江戸の第十三代弾左衛門を襲名するという話が舞い込んでくるところから物語は始まります。

最初に読んだときは、よく分かりませんでした。なんで、関西の貧しい村で育った少年が、江戸の穢多頭を襲名することになるのか。そもそも弾左衛門制度とはなんなのか。
『カムイ伝』でも、弾左衛門が出て来ますが、忍者の陰の親分みたいに描かれていて、それはそれでよく分かりません。
ですから、塩見氏の『弾左衛門とその時代』は、小説の解説本として、同時に読んでもらいたい本ですね。

塩見氏の著作を読んでいくと、江戸の見方がずいぶんと変わってきます。江戸は様々な身分が寄り集まった百万人の大都市ですが、その何パーセントかは、賤民たちです。それも、穢多や非人だけではありません。
そのあたりのことは、この本から引っ張ってみましょうか。

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河出文庫『乞胸 貧民に堕ちた武士』です。


 享保十年(1725年)に弾左衛門が奉行所に提出した文書には、中世以来、つぎの二十八座を支配する権限があたえられていたと主張している。
 一、長吏(穢多身分のこと)
 二、座頭(盲人の組織・当道座に属する人で、あんまのほかに琵琶を弾いたりする)
 三、舞々(鼓にあわせて謡いながら踊る)
 四、猿楽(物真似や曲芸、能や狂言)
 五、陰陽師(加持祈祷のまじない師)
 六、壁塗(左官)
 七、土鍋師(土鍋を作り売る人)
 八、鋳物師(鋳物職人)
 九、辻目暗(当道座に属さない盲人のこじき)
 十、非人(こじき。車善七などの組織に属する抱非人と無籍の野非人がいた)
 十一、猿引(猿に芸をさせて馬の安全を祈る)


ふう……。
二十八ぜんぶを引用するのはやめますが、江戸の中頃は、こんなにたくさんの賤民たちが、弾左衛門の支配下にあったわけです。時代が下るにつれ、少しずつ支配を抜けていきますが、幕末まで非人と猿引だけは、直接的な支配下に置かれました。

こういった多くの賤民たちも歴史の中に生きていた。士農工商穢多非人などと習いましたが、そんな単純に割り切れるものではなかったのです。
それを、小説やエッセイなどの面白い読み物として世に出してくれたのは、ほとんど塩見鮮一郎氏以外にいないのではないでしょうか。

あれ。話がどこかへ暴走しました。

弾左衛門のお墓のことを書いていたのでした。
今、お墓は、住宅街の中にひっそりとあります。
歴史的な人物なのに、なんの標示もありません。触れられたくないのでしょうか。
墓地の入口もこんな感じで、なかなか見つけられませんでした。



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ところで、最初に引用した『弾左衛門とその時代』には、こんなことが書かれていました。


 私事になるが、わたしは魚崎に親戚があったーーまだ高校生だったが、夏休みに何度か行き、住吉川のほとりとか酒倉の並ぶ道を歩いたことがある。


奇遇ですねえ。
わたしも魚崎に姉がいました。95年の震災で亡くなりましたが。

次回は、その姉の墓参りです。



続く




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岡山、神戸、岐阜への旅 その5

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これが京橋になりますね。
下の写真は、京橋を岡山駅方向に渡って、対岸から中州を写したもの。
かつて、あの場所には煌々と灯がともり、イケメン吉行淳之介や永井荷風が芸者と遊んだ、というのは塩見氏ご自身に教えていただきました。
塩見氏が岡山大学に通う頃、ここで飲んでいて、そういう昔話を聞いたのですね。「イイオトコだったよ~」と女性たちが言っていた。あ、吉行の方ですけど。言わなくても分かるか……。

さて。
今日はコテコテの岡山観光します。天気も良いし、岡山城や後楽園に向かいました。テッパンですね。

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お城を右に見て、旭川にかかる細い橋を渡り、後楽園に入場。
後楽園は、城の後ろの園という意味だそうですね。当初、ただの「後園」だったのが、「先憂後楽」という精神から改称されたとか。

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後楽園を出て、すぐの橋。後楽園側から市内に向けて撮っています。
永井荷風が岡山空襲で逃げ惑った「旭橋」は、この鶴見橋のことだと思います。旭川にかかる橋だから「旭橋」と記憶したのか。

岡山で荷風が空襲に会ったことは、『断腸亭日乗』だと短い数行ですが、昭和二十年のみを抜粋して加筆した『罹災日録』の方は、より詳しく書かれています。旭橋もこの『日録』にのみ出てくる。
塩見鮮一郎少年の空襲体験は、前回引用させていただきましたが、荷風の体験も見てみましょうか。
荷風、このとき66歳。東京を焼け出され、岡山ではなんと3度目の空襲体験となりました。


六月廿八日 晴。宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見、今明日必ず災異あるべしとて遽に逃走の準備をなす。果せるかな。この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。予は夢裏急雨の濺来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に昼の如く、叫声跫音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駆け降りるより早く靴をはき、出入の戸を排して出づ。
旭橋に至るに対岸後楽園の林間に焔の上るを見しが、逃るべき道なきを以て橋をわたり西大寺町に通ずる田間の小径を歩む。焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す。前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る。

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ネットで調べてみると、

『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』

というブログの記事があって、荷風の逃げた方向を地図上に記したものがありました。
これを見ると、荷風は「対岸後楽園の林間に焔の上るを見」ても、橋を渡っていくしかなかった。後方は爆心地で火だるまですから。そうしなければ、焼け死んでいたのかもしれませんね。
対岸に行っても(実際は、旭橋と蓬莱橋を渡っている)、「焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり」といった状況で、いつ頭上に爆弾が落ちてくるか分からない。「死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して」とありますが、そのときの恐怖がいかほであったか。想像もできません。


さて、そんなわけで70年前の恐怖体験から、現代のノーテンキ、コテコテ岡山観光の続きに戻ります。

橋を渡って、市内に戻り、商店街に入りました。
岡山では超有名デパート天満屋(てんまや)に行ってみたかったので。


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む。ごく普通の地方デパートだ。
でも、私の地元岐阜県大垣市のこういうデパートは、閑古鳥が鳴いてますから、岡山天満屋はそこそこ盛り上がっていて、まあよかった。


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また一日乗車券で岡電に乗って、駅前の商店街に来ました。
市内ところどころに、こういう水路が残っていて水量も豊かです。なんとなく、水のある街って良いですね。
一日歩き回ってのどが渇きました。
そろそろ……。

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はい。これが一軒目。
ままかりをつまみに生を二、三杯。
二軒目は、前々回かに、外見は大衆居酒屋、中はオサレ居酒屋で、すぐに出たことは書きました。
ホテルにチェックインして、シャワーを浴び、再び夜の街を徘徊。


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これは次の日に撮った写真なので明るいですが、実際は夜の9時頃だったかな。
そろそろ地酒をいただかなくては。
つまみの魚も、いろいろそろっています。
ままかり酢漬け、そして旬のさわらもイイデスネ。いわしの煮つけもデカいぞ。
これらを目の前に並べて、さて冷酒をいただきましょう。


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う~ん。さっぱりわからん。でも安い!
なので、片っ端からぜーんぶ、いただきました。
うぃぃい、ひっく。。
酔った…。腹もクチって、眠い。
もうホテルに戻って寝なきゃ。

明日は神戸です。
ひっく。。



続く





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岡山、神戸、岐阜への旅 その4

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ネットで見つけた、昭和30年代頃と思われる岡山電気軌道の写真です。
岡大に通う学生服姿の鮮一郎青年が、文庫本『破戒』を読みながら、揺れるシートに腰かけている気がします。


さて。超近代的な2両連結の岡電(気に入ったので、オカデンと親しみを込めて呼ぶことにします)を終点東山で降りました。中納言からわずか2駅ですが。

それにしても東山(ヒガシヤマ)。京都を知っている人なら、「あ、あの東山ね」ってピンとくる。かつての城下町岡山市は、京都にある地名が多いのです。これについては、塩見鮮一郎氏がHPで書いているので、そこから引用させてもらいましょう。


「おかやま」とは、丘の山で、城が丘にあったので、この名になった。ただ、旭川が倉敷のほうに流れていたのを城の下に導いてきて、いまのかたちになった。内田百閒の筆名になった百間川は比較的に新しい支流である。また、岡山市はモデルを中世の京都にもとめた。だから、京橋という橋があるし、東山という山がある。この東山には江戸時代の初期に東照宮が置かれた。徳川にゴマをすってみせたのであるが、いまは玉井宮という。岡山駅から路面電車に乗ると終点が東山で、玉井宮の入り口である。この電停から左に入ったところが徳吉町で、むかしの寺町であった。電車の車庫になった広い土地も寺の跡かも知れない。


塩見氏は面白い人で、ご自分のHPで「転居歴」を詳しく公開されています。
生まれてから、2005年の67歳までしか書かれていませんが、それでもなんと! 21か所転居されている。上の引用は「⑤岡山市徳吉町 1942-45 4歳-7歳」からです。五番目に住んだ町ですね。それが東山の近くにあるのです。

これは、いろんなところで塩見さんが書かれていると記憶しますが、ここで不思議な体験をするんですね。
不思議なと私が思うのは、転居歴のところで1942年ー45年とありますように、戦時中なわけです。

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これが徳吉町の現在です。家は建て替えられていますが、石垣が残っていた。
この石垣は軍が造ったそうでして、その上には軍靴工場があった。その宿直室に母子二人で住んでいたそうです。

勝手研究者としては、ピンとくるものがある。
軍靴=矢野直樹。江戸の第十三代浅草弾左衛門のことです。明治になって矢野直樹と改名した弾左衛門は、その皮革加工の技術を生かして、軍靴工場を作ります。西洋靴の生産に乗り出すんですね。今も浅草には靴屋がたくさん残ってますが、これはその頃から続いているわけです。

不思議なというのは、塩見氏は弾左衛門について書いていて、ふと「そういえば幼い頃、軍靴工場に住んでいたな」と思い出すわけです。すると、その工場には、部落の人々が働いていたことも記憶の奥底から湧いて出てきた。それまでぜんぜん忘れていたのに。

そんなことってあるのかしらん。
なんとなく私は、無意識の意識が、作家塩見鮮一郎を、岡山の架空の被差別部落を舞台にした最初の小説『黄色い国の脱出口』から「矢野直樹=浅草弾左衛門」にまで結びつけたような気がします。偶然ではなく。
ま、偶然だとしても、人生って面白いですね。いつの間にか、幼い頃見聞きして忘れていたことを、小説やエッセイで書いていくことになるわけですから。


さて。永井荷風が岡山で空襲に遭遇したことは、割と有名な話で、荷風自身日記に書き残していますが、7歳の鮮一郎少年も空襲に会っています。「⑤岡山市徳吉町」の次に引越した「⑥岡山市門田屋敷の師範学校ちかく 1945 7歳」の時です。
こんなふうに書いている。HPにエッセイがあったので引用します。



百三十八の段 命からがら

空襲のことをくりかえし思いだす。アメリカ軍が北ベトナムやアフガニスタンやイランなどを爆撃するたびに、あの飛行機のしたを逃げまどう恐怖を想起する。かるいPTSD(心的外傷後ストレス)になっている。
そのトラウマをここにすこしばかりくわしく書いてみる。それが治癒にむすびついてくれるのをねがいながら。
真夜中に母にたたきおこされた。
わたしは八歳、小学校二年。岡山市東山三丁目の十字路に面した二階建ての一軒家に住んでいた。
借家だと思うが、二階には東京から疎開してきた大家族がいた。
「空襲よ」
と、母にいわれると、ひとりで二階にかけあがった。そこからだと、なにか見えるとでも思ったのか。ひくい天井のへやに、東京からきた家族がつっ立っている。だれも寝ていないし、すわってもいない。おおきな影がならび、てんでになにかいっていて、そんなことはこれまでにないことだから圧迫をおぼえた。
「西からやられている。空が赤い」
と、窓のそとを見ていただれかが声をはりあげた。
「すぐにこっちへくるぞ」
「山へ逃げろ」
と、つづいた。
空襲のときに逃げる場所はきめてあった。わたしは階段をころがるようにおりると、
「敵機来襲」
と、母におしえた。
「二階のおばちゃんらとさきに逃げなさい。おかあちゃんはあとからじきに行くから」
と、母がきびしくいい、防空頭巾(ぼうくうずきん)をつきだした。
そのときには、二階からもうみんながおりてきていた。廊下を走りぬけてうら口からでて行く。だれもわたしに声をかけてくれない。自分のことでせいいっぱいなのだ。わたしもまた動転していた。なにも考えられない。母のこともかまっていられない。
はだしで土間にとびおりてから、くらがりに下駄をさがした。片方しか見つからない。そとの通りから人のするどい声がとどいてきた。荷車の車輪ががらがらとひびいた。足音が地鳴りのようにつづいている。いよいよあせって、下駄の片方だけで走りだしたが、すぐにぬぎすてた。だれもがちかくの山にむかっている。自転車を手でおしている人もいたが、荷物をもっている人のほうがすくない。寝こみを襲われて着の身着のままだ。わたしのようなねまきすがたで、まえをはだけたまま走っている。
B二九の爆音がちかづいてきた。一機ではなく、つぎつぎとつづく。
「ふせろ」
と、知らない男がまわりの人にむけてさけんだ。
きょろきょろしたのち、もっとも安全に思えた道路わきのみぞにとびこんだ。幅が六十センチほどだから、おおきなおとなにはきつい。生活排水を流すみぞで、五十センチほどのふかさに、十センチ少々の水がよどんでいる。どぶは市中にくまなくはりめぐらされていて、そこにはふやけた米粒が浮いていたり、水草がゆらめいていた。ちいさい蟹(かに)がいるので捕ってあそんだ。きたなくてくさいにもかかわらず、わたしはすすんでとびこみ、背をまるめてふせた。
爆弾が燃えながらおちてきてた。
女たちが叫び、赤子が泣いた。わたしにあたるのか、あたらないのか。もううごけない。運を天にまかせている。そばの長屋が燃えあがれば、熱風につつまれてしまう。
飛行機が飛びさると、
「いまのうちだ」
と、だれかがいった。
おきあがり、道にはいだした。くろい影がいくつかたおれていた。死んでいるのかどうか。だれもかまおうとしない。おとなにまぎれこみ、あいだにはさまれたまま、丘に通じる坂道に入った。もうすこし、まっすぐにすすむと、丘の頂上へ直接通じる山道がある。一瞬、まよったが、ひろい通りをすすむ勇気がわいてこない。そこだと飛行機からまる見えになってしまうように思えた。
それで両側に家のならぶ、ほそい坂道をみんなといっしょに丘へといそいだ。
また飛行機が頭上に近づいた。さっきよりは低く、黒い影がおおきく見えた。家のとぎれたさきの左手に竹やぶがある。おとなに押されるまま、われさきに入り、おおきな穴にとびこんだ。底がじめじめしていた。とがったものをふんで、けがをしたようだが、すこしもいたくない。なにも感じない。それに声もでない状態になっていた。
物の落下する音がした。空気がひゅるひゅると鳴っている。焼夷弾は空中で爆発して、ちいさい油煙の玉になって花火のように空中にひろがり、燃えながらおちてくる。木と紙からできている日本家屋を焼くためにはじつに好都合であった。
さきにどぶにうつぶせたときよりも、こんどはずっとこわかった。西から始まった空襲は、もう町の中心部まで焼いたのだろう。東のほうに集中してきているのがわかった。頭巾をふかくかぶりなおした。
おおきな穴が人でうまった。くらがりに黒い人影があとからあとからやってくる。母の姿がないかと目をこらしたがわからない。いつのまにか、二階のおばちゃんらともはぐれてしまい、まったくのひとりぼっちだ。
爆音がきれると、プールのような穴をでて、ふたたび坂道をのぼった。もう左右に家はなく雑木がしげっている。ずっとさきの頂上に料亭ふうの一軒家がある。まわりはその家の畑で、そこの崖に横穴の壕が掘ってあった。なかはぎゅうぎゅうだったが、おとなが隙間をあけてわたしをいれてくれた。
焼夷弾の鉄の破片が音をたてて地面にぶつかっている。
ずいぶんとながく防空壕(ぼうくうごう)で息をひそめていた。泣く赤子を懸命にあやす母親のひくい声がするだけだ。みんな黙然(もくねん)とうなだれていた。直撃されれば全員が焼け死ぬだろう。つらい時間だった。
夜がしらみかけるとしずかになった。
こわごわとそとにでた。丘の端に立つと市街が一望できた。きのうまでは家で埋まっていたそこは赤い炎の海だった。空の雲までが染まっていた。
「おわった」と思うと気持ちがほどけた。それでよけいにきれいに見えた。
あとにもさきにも、あれほど迫力がある豪華な眺めを知らない。だれもが息をのんで見つめていた。
一軒家で炊き出しが始まったとき、わたしは母とあえた。
「どうしてこっちの山道からこんかったの。あっちの坂は家が建てこんでるから、もし火がついたら通られんようになるじゃろ」
と、いきなりしかられた。
そのころには雨がふりだしていた。大火にあぶられた空気が上昇して雲になり、夕立のような雨になってふりそそいだ。原爆のあとにも黒い雨がふったそうだが、ふつうの空襲でもおなじで、煤(すす)のまじるよごれた水滴だった。丘の家の座敷にあがって、母といっしょにおにぎりを食べた。おおぜいの人が、だれの家でもないかのように、気ままに出たり入ったりしていた。ぬれたゆかたがいつのまにかかわいていた。
わたしの家から山がちかかったから助かったのだろう。子どもの足でもおくれないで逃げのびた。市中を流れる西川(にしがわ)や旭川(あさひがわ)には、黒こげの死体がいっぱい流れているとあとできいた。わたしは数か所のかすり傷ですんだ。
ただ、どこでだったのかわからないが、焼夷弾の火の粉を手の甲にあびていた。皮膚を焼いた油の玉は時間とともに肉にもぐりこみ骨にまで達するときいていたが、火の粉が微量だったのだろう、十個ほどのそばかすが指にできた程度だ。この赤い斑点はそれでも五十歳ごろまでは鮮明に見えて、人からよく、「指のそれ、どうかしましたか」とたずねられた。老人になったいまでも、うすれはしたが、まだいくつかのこっている。


「老後の楽しみ」というHP発表のエッセイからです。
岡山大空襲と言われている米軍の無差別爆撃で、約1700人が死亡し、家屋1万2千戸以上が焼失したそうです。


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(空襲後の岡山市内)


こういう記憶も、作家塩見鮮一郎を形成していくひとつの要素になっている気がしますね。


それにしても転居歴21回はすごいですね。
ところが私も引っ越し癖がありまして、指折り数えたら49年間で18回でした。塩見氏が67年で21回なら、ふふふ、勝てるかもしれません。

それはともかくとして、岡山の旅人は、東山駅に戻り、またも岡電に乗ったのでした。

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こんどはこんな車両。
なかなかカッコイイ。

旭川が見えて来ました。
京橋から、かつての遊郭のあった場所を写真に撮りました。


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続く





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岡山、神戸、岐阜への旅 その3

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右が塩見鮮一郎『ハルハ河幻想』。
左が『司馬遼太郎はなぜノモンハンを書かなかったか』という本。著者の北川四郎さんは、元外交官の立場から『ノモンハンー元満州国外交官の証言』という本も出しています。

以前にも書きましたが、国民的作家、司馬遼太郎、村上春樹がどのように「満州、ノモンハン」を扱ったのかに興味があります。それについて短い文章も書きました。
結論だけいうと、国民的作家はまさにその国民の無意識的願望に応えるように、巧妙にノモンハンの核心に迫るのをスルーした、ということ。
司馬遼太郎は、資料を集めるだけ集めて、結局書かなかった。もし書いたら「怒りで死んでしまう」という理由までもらしているのに。
村上春樹は、小説『ねじまき鳥クロニクル』や、エッセイの取材で現地に飛んでいる。しかも、中国側、モンゴル側から二度も取材を試みている。村上の評価は難しいかもしれません。読む人によっては、「核心を衝いている」と評価するでしょう。でも、私にはそう読めなかった。ノモンハンは、彼の小説世界のファンタジーをより強化する役割で利用されているように思えたし、「辺境」をテーマにしたエッセイでも、同じだった。

あ。岡山の旅について書いていたのでした。。

小説『ハルハ河幻想』には、岡山市内の小学校が出てくるのです。路面電車の平面停留所「中納言」から歩いて数分のところ。
三勲(さんくん)小学校といいます。


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これが現在の三勲小学校の正門。

それにしても「三勲」っていうネーミング、あまり聞いたことないですねえ。
「勲」は、勲章とか殊勲など、なんとなし戦前のイメージが読み取れるのかなあと思いながらネットで調べてみると、ハイ、わかりました。

三勲は、かつて肉弾三勇士などがありましたが、戦後は三羽烏ですね。御三家とかもある。
その日本人が好きな3を使って、時の天皇のため命をかけて仕えた三大忠臣、和気清麻呂、児島高徳、楠正行のことだそうです。なぜこの三人をチョイスしたか、ここでは深くツッコミません。
とにかく、その3人を祀った神社が、かつて岡山市の操山(みさおやま)山腹にあった。三勲神社です。
戦時中の匂いが濃厚なこの神社は、戦後なくなりました。ご神体だけ、どこかにひっそりと祀られているはず。で、小学校名に、その名が残ったというわけです。


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小説に出てくるのは、こちらの旧校門の方です。これは戦前、おそらく大正年間に造られたもの。
この旧校門の反対側、この下の写真でいえば道路左側、三階建ての建物が、小説『ハルハ河』では、たばこ屋をかねた文房具店です。
小説を引用すると、こんな感じ。


《門のむかいに、木造の二階家が並んでいる。「たばこ」の看板のある右端の家を除いて、しもた屋だった。タバコのケースの左側のガラス戸にも明りはない。夕闇と同じ暗さが、店のうちを領している。ついにきた、とも、やっぱりきてしまった、とも思った。うしろめたい気もあった。ふりかえると、春葉がいて、ぼくを見つめているような。》


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「ぼく」が「春葉」の実家を訪ねて、東京からはるばるやって来たシーンです。

小説『ハルハ河幻想』は、やや複雑な構成になっています。
小説の時間は、1980年頃。「春葉」という男は、塩見氏自身がモデルと思われます。
(ただし、この三勲小学校旧校門前の店が「春葉」の実家という設定は架空もの)
小説の語り部は「ぼく」。編集者を辞めたばかりの売れない作家という人物。これも塩見氏がモデルのようです。

この「ぼく」と「春葉」は、この三勲小のシーンの1年ほど前に、東京で結成された、中国を旅する訪問団に加わって、他の十数名のメンバーといっしょに、旧満州の各地を旅した経験があります。そして、旅順、奉天、新京、ハルピンと、旧満州国の奥深くへと旅をする。そして、ついにハルピンで「春葉」がひとり失踪する。行方知れずとなる。

小説は、「春葉」が失踪し、彼以外の訪問団は全員帰国したところから始まります。消えた「春葉」が、いったいなぜ、どこへ行ってしまったのかを、ミステリーチックに解き明かしていくというもの。
しかも、小説内小説として、売れない作家「ぼく」が、小説として書いていくという構成です。そして、中国訪問団に加わった者全員が、それぞれの立場から、不在の「春葉」について、彼の失踪について語っていく。

「春葉」という男は、生まれてすぐ、父親がノモンハンで戦死しているわけです。
この設定は、塩見氏自身と重なります。
ちなみに、「春葉」は、ハルハ河からきている。この河を挟んで、主に日ソの正規軍が対峙し激戦となりました。両者合わせて2万人以上の戦死者が出ているといわれています。昭和14年。太平洋戦争開戦前の歴史です。
そして「春葉」は、父親の死後、四十年近くたって、父親の死の意味を探るかのような旅をする。
父親が戦死したノモンハンには行けなかったが(当時の中国は、まだ自由に旅行できません)、ハルピンという旧満州国の辺境の街にまで行った。その間、様々に見聞を広げ、特異な体験もして、「春葉」はある種の真相、いや深層に触れたのではないか。
それを、もうひとりの分身「ぼく」が、解き明かしていくという物語です。
複雑な構成が、かえって客観性を担保し、私事に淫しない物語になっている気がします。

これは、神田の文藝学校で、塩見氏本人から教えていただいてることですが、小説は構成がイノチだということ。空間的にも時間的にも、立体的に構成された小説は厚みや深みがあります。それに、言葉はすぐに「我」という手垢にまみれますから、ある程度構成を複雑化することで、作品を構築する言葉から距離が保てる。あ、これみんな、教室における氏の言葉を私なりに解釈しているだけですが……。

小説『ハルハ河幻想』は、もう図書館でしか読めません。古本サイトで何冊か出てますが。
私としては、この小説の刊行直後、『浅草弾左衛門』という近代以降隠蔽されてきた歴史ロマンを、塩見氏が掘り出して行ったことに意味を見い出したいわけです。

ま、それはさておき。
今回は、岡山紀行でした。。

旧校門の近くにこんな理髪店がありました。小説にもチラリと出てきたかな。


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グランドの角を曲がって、校舎の裏手へと歩いてみました。小説でも、「ぼく」が歩いている描写もあるんで……。
でも、ここまでいくと、オタク的かな。。


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三勲小というだけあって、歴史を感じる遺物が学校のあちこちに残っている気がします。
これはもう使われていない裏門かと思われます。


三勲小のまわりだけでもいろいろありましたが、岡山市には、まだたくさん昭和の遺物が現役で残っていまして、歩いていて嬉しくなったりもします。でも、これは私の勝手な思いであって、街の人は、近代化から取り残された負の遺産として映るのかもしれませんね。


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さて、そろそろ平面停留所「中納言」に戻って、路面電車の終点「東山」へと向かわねば。
老舗のキビ団子屋の前で待っていると、ちょうどやってきたのは、ヨーロッパで走っているような二両連結のカッコイイ車両です。こんなのもあるんだぁ~と、ややコーフンして乗り込みます。


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中はこんな感じ。
ビールでも買ってくればよかったなあ、と思いきや、あっという間に終点に到着しました。



続く








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岡山、神戸、岐阜への旅 その2

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岡山駅前の広場から交差点を渡り、商店街のアーケードがあったので吸い込まれてみました。
まだ午前中ですから、人出はそれほどでもない。GW中は、市内の商店街が連携してイベントが開かれるようで、あちこちにチラシ、ポスターが貼ってありました。焼き鳥や生ビールの準備をする出店の人びとも、忙しく働いていました。

しかし。。これは後から分かったことですけど、あまり盛り上がっていなかった。特に若い人がいません。みな、郊外のショッピングモールとかに出かけているのかな。
岐阜の実家近くの大垣市は、ほとんど死滅したシャッター商店街だから、それでもまだ、岡山は良い方なのかしれません。

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こんな食堂や居酒屋も商店街にあります。古いですね。
食堂は昔のまんまという感じでしたが、居酒屋は夜入ってみてガックリ。中はすっかり今風の小ぎれいな居酒屋に変身されていました。ぜんぜん大衆酒場じゃない。OLのおねえちゃんが、オサレに酒を飲む場所です。つまみもマズい。すぐに出ました。


あ、そうそう。ただ、街を飲み歩きするために岡山まで来たのではなかったのです。
岡山は作家塩見鮮一郎氏が、生まれてから大学卒業までいた街。初期の小説には、岡山が舞台の作品が多い。自称、勝手研究者として、一度は訪れてみたかったのです。
で。まずは市電に乗って、停留所が「中納言」という古風な名前の場所に行ってみることにしました。

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岡山の路面電車は、「岡山電気軌道」といいまして、明治43年の創業以来、名前が変わっていないという珍しいチンチン電車です。初乗り100円から140円程度の値段設定で、本数も10分に1本と多く、気楽に利用できる市民の足です。イイデスネ!
1日乗車券が400円だったので、即購入。今日は1日乗りまくるぞ! と決めました。


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こんなレトロな電車も走っています。上の車両は、かつて日光で走っていた東部鉄道の路面電車の車両。
こういうの、イイデスネ!
独特の音と揺れが懐かしい。止まっているときのモーター音とか。
嗚呼、東京も路面電車、復活すればいいのに。

あ。ただ、チンチン電車を乗りまくるために、岡山まで来たのではないのです。
勝手研究者は、1983年、せきた書房から出た『ハルハ河幻想』という小説に出てくる、三勲小学校の旧校門を写真に収めるために、岡山駅前から乗ったチンチン電車を、古風な名前の停留所「中納言」で降りたのでした。

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降りたことは降りたのですが、分かります? 中納言の停留所。
オレンジの線で囲まれている路上の細長いゾーンが停留所。へえぇぇぇぇ。
私とて、京阪電車の京津線沿線で育ってますから、京阪三条駅から浜大津に向って二駅ほど、道路の真ん中に、細長い停留所のホームがあったのを知ってます。でも、それは高さ20センチほどの、一応はホームでした。幅も50センチくらいかな、もうちょっとかな、ありました。
けど、これは完全な平面停留所です。めずらしいですね。

さて、老舗の元祖吉備団子屋の前を通って、三勲小学校へと向いますか。



続く





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岡山、神戸、岐阜への旅

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先日、ゴールデンウィークを利用して、岡山、神戸、そして岐阜へと旅してきました。最後の岐阜は、養老郡養老町の実家へ帰省しただけですけど。

で、冒頭新幹線の写真です。乗ったのは朝7時台の「のぞみ博多行」。
写真はN700系っていうやつですか。ユニークな700系カモノハシより精悍な顔だち。ただし、この車両には乗れず、次に入ってきた700系に乗りました。
なぜかというと、

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この混雑。急きょ決めた旅だったので、指定席はすべて売り切れ。仕方なく自由席に並んだのですが、のぞみは自由席が3両しかありません。そして、2号車、3号車は、階段の途中まで列が出来ていた。あんなの初めてです。
こうなったら先頭に行ってみようってことで、ホームの端っこに行くと、なんとか2本ほどやり過ごせば座れそうです。

それで、朝日を浴びながら長い列に並んでいると、

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こんなものが目に入りました。
新幹線の父、十河信二(そごうしんじ)さんです。
戦前は満鉄にいた人。戦後、齢70を過ぎて、国鉄総裁になり、新幹線の建設に尽力したそうです。新幹線は満州鉄道の遺産を受け継いだものだったのか。。

今、「日本人はこんなにスゴイ!」ブームですね。
自分たちで自分たちをスゴイ、スゴイっていうのもどうかと思いますけど。
それだからか、外国人にスゴイ!って語らせるものも多いですね。
で、そのスゴイネタで必ず出てくるのが新幹線。世界にライバルは多いようですが、けっこう大きな事故を起こしています。中国が起こしたときなんか、「それみたことか」と、性格ひんまがりな意見が続出して、誰も「おいやめろよ、そういうの」って言いませんでした。井筒監督くらいかな、私が知っている範囲では。

私は東海道沿線でずっと育ち、父方、母方の実家も、東海道沿線なので、子どもの頃からよく新幹線を利用していました。今でも時々、ホームでそういう光景を目にしますが、京都駅から姉と二人で上りの「ひかり」に乗り、次の駅名古屋で、迎えにきた祖父母と合流する。そんな旅をしたことがあります。小学校低学年の頃です。ホームで手を振る両親が見えなくなると、姉と二人きりになり、ほんとドキドキしたなあ。買ってもらった駅弁を二人で食べて、近くの席のおばさんに「えらいねえ」なんて声かけられて。
そんなこと出来るのも、新幹線だからですね。遠い名古屋でも、次の駅だし。

だから新幹線は、新幹線に関しては、どうしても悪口が書けません。こんなに全国に張り巡らさなくてもいいだろ!って思うけど、言いません。
早けりゃ良いってもんじゃねえぞ、旅には情緒ってもんが必要だ。なんで食堂車をなくしたんだ、復活させろ!
これは、声を大にして言いたい。

でも、リニアモーターカーはいけません。
即刻、開発も建設も中止すべきです。
新幹線はスゴイ!
これは認めます。でもリニアはいらない。そもそも、すでに東海道新幹線があるじゃないですか。
それに、ずっとトンネルのなかを突っ走るんでしょう。環境の破壊が心配だ。電気代もスゴイらしい。原発推進と絡めているのかもしれませんね。

地上を移動するのも、もはやこれ以上速くなくても良いと思います。フーテンの寅さんみたいに、各駅ローカル一本槍ではないけども、「ひかり」くらいが最速の限界の気がしますね。

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ってなことを考えていると、岡山に着きました。東京から3時間6分。早いですね~。
ちなみに車両の中は、東京からずっと、連結部分までびっしりと乗客で埋まっていました。床に座れないくらい。山手線なみの混雑です。根性あるなあ。

さて。人生初の岡山市に到着しました。
一度来てみたかった。私が勝手に研究している作家塩見鮮一郎氏の故郷です。
天気は最高。
まずは、路面電車の駅に向かいます。
たしか、駅前にあったはず……。



続く




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船戸与一『満州国演義』を読む その3

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長州藩士吉田松陰の予言通り、大日本帝国は植民地を併合し、欧米列強に対抗しようとしました。
薩長閥で固められた政府と陸軍勢力を中心として。
このことに接続して、面白い視点で薩長閥とその次に台頭してくる勢力について語っている人がいました。
それが上記の対談本。
発言者は内田樹。こんなふうに語っています。

《1922年に山縣有朋が死に、田中義一が29年に死んで、戊辰戦争以来陸軍を支配していた長州閥が終わります。それまで陸軍は長州出身者のための特権的なキャリアパスがあったわけですが、それがなくなる。すると、その空隙を狙ってそれまで冷や飯を食わされてきた軍人たちが一気に陸軍上層部にのしあがってくる。これがほとんど「旧賊軍」の藩から出てきた人たちなんです。》

「旧賊軍」とは、薩長の新政府勢力に抵抗した奥羽越列藩同盟のことですね。
その出身者、東条英機は岩手、石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手と、満州国、日中戦争、太平洋戦争に深く関わった軍人には、確かに多い。
内田樹は、先の引用の次の箇所で、こんなふうに語ります。

《だから、あの戦争があそこまで暴走したのは、「賊軍のルサンチマン」が少なからず関与していたのではないかと僕は思っています。結果的にこの人たちが戊辰戦争から75年かけて薩長勢力を中心にして築き上げてきた近代日本のシステムを全部壊すことになった。大日本帝国に対する無意識的な憎しみがないと、なかなかあそこまではいかないのではないか。》

船戸与一『満州国演義』の第1巻、冒頭わずか3頁に描かれた場面。薙刀をふるう会津藩士の妻と、それを力づくで犯す長州藩士を思い出してください。
実は、作者がしかけた謎は、第9巻ですべて明かされます。後から振り返れば、その前にもチラホラと匂わせてはいたのですが。

ミステリー大賞を受賞したぐらいですから、この小説はミステリーなんでしょう。
私はそういうふうには読みませんでしたが、冒頭の謎かけに引っ張られて最後まで読み切ったことは確かです。だから、それをここで暴露することはしません。ご安心を。


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でも、ほんの少しだけ明かすと、冒頭の場面で、犯す長州藩士と犯される会津藩士の妻という構図がありましたが、その両者の子孫が、それぞれ満州の大地で活躍、暗躍する物語ではあるのです。それぞれの命運を、満州国と共にして。その結末は推して知るべしですが、長い長い物語を追いかけて昭和20年まで来ると、ひとりひとりの登場人物の死が(やはり死んでいくわけですが)、まるでよく知っている家族、愛憎相半ばする血族でもあるかのように思われてきます。

今朝の東京新聞(5月10日)に、長野県にある満豪開拓平和記念館の専務理事、寺沢秀文さんのインタビュー記事が載っていました。その中で寺沢さんは、「加害者としての歴史も語らなければならない」と、当然のことをおっしゃっていました。今のこの国では、こういった発言が、反日というレッテル、バッシングを受けてしまいます。
この寺沢さんの家族も満豪開拓団に加わったのですが、同じように開拓に参加したある老齢の女性の言葉を紹介していました。
東京新聞のインタビュー記事から紹介します。

《開拓団は、国のかけ声に乗って、食糧増産の名目の下、国防のための「人間の盾」にされて乗り込んでいったわけです。参加したある年配の女性が言った言葉が忘れられません。「人さまの土地で、自分たちだけが幸せになろうとしたのが間違い。狭くても、分け合い、協力しあって自分たちの手の中で幸せを探すべきだった」と。》

ああ、まさにその通り。
この太字部分、年配の女性の言葉は、松陰先生が指し示した新生近代日本の誤りを、分かりやすい言葉で正鵠を得た、深くて重い言葉です。

満州国。それは松陰先生の見た夢。そこに薩長閥の弟子たちがむらがり、さらに、より複雑な心理と共に奥羽越列藩同盟の怨みがからみついた。そこに、ずっとずっと貧しかった農民の欲望が吸い寄せられる。何重にもかさなった幻想の帝国。崩壊の予感を最初から孕んだ砂上の楼閣。

今のこのクニもまた、幾重にもかさなった妄想の上に、さらに妄想を重ねているとすれば、同じ運命をまた、たどることになるのでしょうか。



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船戸与一『満州国演義』を読む その2

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4月23日木曜日、船戸与一著『満州国演義』第9巻を読了しました。(訳あって、ネットに接続できなかったので、ブログのアップが遅くなってしまいました……)

その日の朝刊で、作家の訃報を新聞で読んだのです。前日の夕刊は、作家の日本ミステリー大賞受賞を報じていました。入院中の病院から駆け付けた車イス姿の写真つきで。
全9巻の大作は、10年の歳月をかけて書かれたそうです。短いあとがきには、「膨大な量の文献との格闘が不可避だった」とありました。そして、次のような言葉が印象的でした。

 《書きながら痛感させられたのは小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していくことだった。理由ははっきりしている。戦争の形態が変わっていったのだ。まず、兵器がちがう。次に、交通手段がちがって来る。それは戦術そのものを変化させた。点対点は線対線に、線対線は面対面に。最後は空間対空間が戦況を決定するのだ。航空機による無差別爆撃が常態となったとき、牧歌性が存する余地はもはやどこにもない。それは近代戦の宿命であり、浪漫主義のつけ入る隙のないものだった。》

近代戦による徹底的な敗戦。
それはロマンチックに美化できるような現実ではなく、破壊と殺戮、凌辱と強奪の地獄絵図です。昭和19年生まれの作家は、直接的な戦争の記憶はないと言います。それでも資料を読み込んでいくうちに、圧倒的な現実を体験した。戦後生まれだから、体験していないからといって、人は想像力によって現実を後追い体験できる。それなのに、最近はどうなってるんだ。どうしてこうもイージーな浪漫主義で、あの戦争を思い浮かべるのだ。そのように、死期の迫った作家は怒っている。そう私には思えます。

70年前の徹底的な敗戦で終わる明治維新以降の大日本帝国は、戦争に次ぐ戦争で明け暮れた国家でした。小説の第9巻で、その端緒は吉田松陰の『幽囚録』にあると書かれています。へえ、と思いました。伝馬町の獄に繋がれたときに、松陰が遺書としてしたためた書です。その中に、こんな一節がある。植民地主義を抱えて迫って来る欧米列強にいかに対抗するか。その問いに対する松陰の解答です。

 《いま急に武備を修め、艦ほぼ備わり砲ほぼ足らば、すなわちよろしく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じて、カムチャッカ・オロッコを奪い、琉球を諭し、朝覲(ちょうきん)会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古(いにし)えのごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし》

ほぼ、松陰が示した処方箋の通りに歴史は動いた。
明治の初期は、薩長閥が権力を独占していましたから、松陰先生の影響力は大、だったのでしょうか。


続く



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船戸与一『満州国演義』を読む

ずっと書いてきた神戸の話ですが、最後にするつもりの第9回が書けなくて休止しております。
そのうち書きますが、しばらくは違う話を。


船戸与一『満州国演義』を読み始めました。
壮大な物語。近代日本人が囚われた満州国という夢。
今、第8巻に入りました。
もうすぐ最終の9巻です。わくわくします。


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こちらが第1巻、「風の払暁」です。
「払暁」とは、明け方、あかつきの意。
なるほど。冒頭を読み始めると、慶應4年8月の会津藩の出来事から物語は始まりました。
こんなふうに。

 女はひとりじゃなかった。夫もいたし、子供もいた。実家には父も母も妹もいる。城下には何人もの親戚が住んでいた。だが、はっきりと消息がわかっているのはいま傍らで泣きじゃくっている二歳の息子ひとりきりだ。鶴ヶ城に籠城中の夫にどんな指示が出されているのか見当もつかない。白虎隊にはいった義弟は飯盛山の中腹で自刃したという噂も聞いたが、それも定かじゃなかった。妹は娘子隊として城下で薙刀を振るっているらしい。しかし、それもこの眼で確かめたわけじゃない。会津若松はいまだれもが味わったことのない大騒動のさなかにある。女は床の間を背にして薙刀を手にしていたが、これから何をどうしたらいいのか判断のしようもなかった。

慶應4年といえば、明治元年のこと。近代日本の幕開けです。島崎藤村の『夜明け前』は、慶應4年・明治元年が夜明けとすれば、その少し前のことを書いた長編小説になりますね。江戸末期のお話。
『満州国演義』第1巻は、「払暁」あかつきですから、いよいよこれから近代日本が始まる慶應4年8月のお話から始まるんだ、ふむふむ、などと読み始めました。でも、なんで会津若松なのかな??という軽い疑念と共に。
この冒頭のシーン。実は、この女、薙刀を手にして、押し入ってきた長州の侍と対峙しています。
薩長軍が攻め入った城下はすさまじい惨状で、女たちは凌辱され、略奪の限りを尽くされた。薩長はたがいに狼藉を競い合うようで、会津藩の間諜の首を切りその肝を煮て食い始めたという。
そんな城下における地獄の惨状の中で、女は薙刀を払われ、長州の侍に犯されます。妹なら舌を噛み切って死ぬだろうと女は思うけども、自分は生きる、何があっても生き抜いてやる、そう決意して自分にのしかかる男の重さ、汗の匂いに耐えている。

それが冒頭のシーンになります。たった3頁。短いですが、非常に印象に残ります。
3.11からずっと、東北に関心を持っているので、よけいに気になる。
明治近代日本を作っていった薩長土新政府と、会津藩ほか奥羽越列藩同盟。勝者と敗者。力づくで犯す男と犯されながらも必死で生きようとする女。
これはいったいなにを意味するのか。

3頁のシーンはすぐに終わり、第一章「燃えあがる大地」が始まりました。
西暦1928年、昭和3年、皇紀2588年、民国17年の物語が、実はここから始まるのです。
あれ??
じゃあ、冒頭の3頁はなんだったんだ??

物語は、すっかり中国の黄砂飛び交う大地を舞台にしている。時間も60年ほど飛んで、昭和に入っている。
じゃっかんの「?」を残しながらも、満州国の物語が面白いので、どんどん読み進めます。
とうとう8巻まできました。
すでに太平洋戦争に突入しております。満州国の大地から、ときおりシンガポール、ビルマ、南太平洋へと物語は広がっている。
やがて、1945年の敗戦とともに、満州国は消滅し、物語は幕を閉じるのでしょう。
しか~し。
冒頭3頁の「?」は、いまだひとことも触れられないまま、8巻の途中まできました。
ううむ。どうなってんだろ。
これで、なにもないまま物語が終わったら、壮大な肩すかしを食らったことになりますな。
ともあれ、こうなったら最後まで見届けようと思います。満州国の行く末を。

考えてみると現代人は、日清、日露、日中、日米と戦争に明け暮れた戦前の近代史を、あまりよく知らないのではないでしょうか。私も含めてですけど。だから、「侵略の定義はいろいろある」とか、「軍の強制はない」とか軽々と言っちゃう。
『満州国演義』を読んでいると、「おじいちゃんもひいおじいちゃんも良い人だったから、きっとそんなに悪いことはしてないはず」などという甘い期待は打ち砕かれます。
でも、それで良いと思います。自虐とかではなく、あったこと、起きたことは、直視すべきだ。
この小説は、そういう力を持っている。だから、ぐいぐい引き込まれていきますね。
で、冒頭3頁の謎かけは、どうなるのかな~。


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神戸 1995.1.17 第8回

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 今、私がこの母上について知る手がかりは、これらの句集以外なにもない。この人物について知りたくても、周囲の知人や親戚に問い合わせることは不可能だし、その手立てもない。だが、こうして文章を書いているうちに、どうしてもこの母上について知りたくなった。
 業を抱えているのは、もしかしたら我々親子も同じなのかもしれない。何かを書かなければ生きてはいけないような人間は、大なり小なり、似たようなものだ。そんなふうに思ってもみた。句集をひも解けば、この人の心の内を知る、なにかがつかめるのではないか。
 それで、わざわざ国会図書館まで出かけて行って、三冊の句集を閲覧することにした。句集は、私家版ではなかったが、アマゾンでも扱いがなく、公立図書館にも入っていなかったのである。
 しかし……。
 そこには、私の目をみはるような句は、たった一句をのぞいて、皆無だった。一読して、なんの注意も引かなかった。文学的な価値がないとか、そういう上から評するようなことを言いたいのではない。私は俳句についてはド素人だし、評価する向きも多いからこそ、こうして三冊の句集となって残っているのだろう。
 だが、たった一句だけは猛烈に興味を引いた。
 それは三冊目のタイトルにもなっていた。
 『雛の家』という。

  震災の遺児きて雛の家となる

 これがその句。良い句だと思う。平凡な句なのかもしれないが、私は好きだ。
 老齢にさしかかった夫婦の家に、震災で亡くなった息子の遺児がやって来た。その悲しみと悦びが「雛の家」という言葉に込められている。雛鳥のようにかわいらしい遺児。雄か雌かも分からないような幼さ。それが、我々から奪い取り、我々の存在を消し去られた孫娘だったとしても、私はこの句が好きだ。
 実は、このタイトルについては、アマゾンで確認済みだった。だから、平成16年(2004年)に出されたこの句集について、国会図書館で手にする前から、なんとなく、孫娘との新しい生活を綴った句が並んでいるのだろうと思っていた。期待してもいた。だからこそ、わざわざ国会図書館まで出かけて行ったのである。その期待は、たった一句を除いて、見事に外れることになるのだが。


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 私は、都内なら、天気が良い日はたいてい自転車で移動する。二月の半ばの日曜日。江東区の端っこ隅田川沿いに住んでいるので、まずは大川を渡り、神田から皇居前に出た。皇居沿いに自転車を走らせる。二月にしては暖かい日曜日だった。皇居マラソンの人びとをすり抜けて三宅坂を登り、テロ対策で厳重警備の国会を尻目に、国会図書館に入った。
 何十台と並んだパソコンで手続きを済ませ、三十分ほど待たされた後、三冊の句集を手に取った。『雛の家』以外の二冊は、震災直後の箕面市の家でパラパラと手に取ったことは先にも書いたたが、ほとんど記憶にない。
 その二冊は、昭和61年(1986年)、平成5年(1993年)にそれぞれ上梓されていた。巻末に吟行年譜が付されていて、どれだけの山々を山岳修験僧のように歩き回ったかが、ひとめで分かるようになっていた。おそらく息子たちが成人したからか、昭和が終わり平成に入るころから、海外への吟行旅行も増えている。
 2004年刊行の『雛の家』には、震災前の平成6年から約10年間の句が、年ごとに並べられていた。この句集のみ、巻末の年譜はなく、そのかわり、句の並びがそのまま年譜となり、句の右肩につけられた小さな文字で、「穂高岳」とか「葛城山」とか「アンコールワット」など、句を詠んだ吟行地が分かるようになっていた。
 私は少し緊張しながら、阪神淡路大震災の年、平成7年、1995年を開いてみる。
 年明けの1月は、次の句から始まっていた。

 六甲山  鏡餅山清水にも供へられ
      尾根越ゆるときに吹雪の煌めける

 そしてその次の句が、

 ※    震災の遺児きて雛の家となる

 だった。
「※」なのは、これが吟行地で詠まれた句ではないことを示している。そして、この句集の全句の内、この句のみ「※」で、あとはすべて地名だった。つまり、作者にとってこれは、例外的な句なのだ。
 以下、次のように続く。

 熊野古道 小辺路  大寒も金剛峯寺明け放つ
           重畳の雪の山越す熊野詣
           蒲公英の白き絮(わた)とぶ大斎原(おおゆのはら)

 菅島   しろんご祭神に雄雌の鮑供え
      海女被る手拭心経染め抜かれ

 穂高岳  穂高小屋万年雪の寄合に
      常濡れの一枚巖も登山道
      御幣山残雪も亦幣をなす

 富士山  御来光いま白金の大円鏡
      開耶姫(さくやひめ)澄みたる五湖を水鏡
      溶岩の蓮華八峰雪を待つ

 不思議である。摩訶不思議である。わけが分からない。せっかく『雛の家』と銘打ってあるのに、可愛いヒナは一度だけ顔を見せただけで、あとはすべて山岳を中心とした吟行句なのだ。それは、最後の年、平成16年(2004年)までずっと変わらなかった。
 雛の句の次に、「熊野古道 小辺路」の句が三つ。「大寒」とある以上、1月20日頃のことなのか。いや、さすがにそれはないだろう。立春までの期間を大寒と呼ぶこともあるらしいので、だとすると、1月後半ということか。17日に震災、22日23日の週末に通夜と葬儀を終え、もう熊野の山に入っていったのか。
 
 国会図書館の中はポカポカとあたたかく、日曜日なのに、いや日曜日だからか、意外に大勢の人々が来館していた。それぞれ席に着いて、各々に必要な書物や雑誌類を手に取って読みふけっている。
 ここに来なければ手に取れない、書籍や雑誌、それに古い新聞など。いったい何をそれほどまでして調べているのか。調べなければならないのか。句集とにらめっこしている自分は棚に上げて、頭を上げ、しばらくボーっと人間観察をしてしまう。
 若い男女は卒論のためだろうが、あのお爺さんが読みふけっているぶ厚い書物はなんだろう。向うには、図書館とは縁遠そうな(失礼!)茶髪で皮ジャンの男もいる。その男が持っている本は遠くて確認出来なかったが、さっき通った雑誌の受け取りカウンターの上には、昔のエロ本がどんと積まれていた。あんなものでも、ここには見に来る人がいる。
 もう一度、句集『雛の家』を開く。私は、何を期待していただろう。よくは分からないが、なんだか裏切られた気がしてきた。やはりそうかという怒りに似た感情が、沸々とこみ上げてもきた。
 震災後、私と両親は、娘の遺稿を拾い集め、遺児となった孫娘を育て上げるための環境を整え、文字通り東奔西走していた。ところが……。最終的には「雛」を手に入れたあんたは、熊野に菅島に穂高ですか! 富士登山ですか! なにがサクヤヒメだ!!
 結局、何部かをコピーして、その日は持ち帰った。その夜、自宅でもう一度読んでみたが、漢語の多い句の冷たい字面に、作者の心内をのぞきこむことは出来なかった。たった一句、「震災の遺児きて雛の家となる」、以外は。
 



続く



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神戸 1995.1.17 第7回

 
 由佳は保育園に通うようになっていた。まだ二歳だし、園には待機児童も多くいたはずだが、震災孤児として優遇されたからか、育てている祖父母に定職があるわけでもないのに、保育園に入園出来たようだった。私の両親、特に母親からすれば、それは「通わされていた」になる。仕事も辞めて、孫娘と一日中向き合って子育てする覚悟を決めたのに、あなた方、それはないだろう、と。
 保育園のことは事前に知らされていたので、そのこともまた私たちの行動に火をつけたのかもしれない。まだ震災後数か月しか経ていないのに、保育園に通わされている由佳に対する不憫の念と、もうひとつは、保育園ならチャンスがある、といういささか際どい動機だった。
 私が運転する父親のワゴン車は、助手席に父親、後部座席に母親を乗せて、静かに保育園の正門前に停まった。午後四時か、四時半頃だったと思う。五月の陽光が降り注ぐ、暑いくらいの日だったと記憶する。門の横にこんもりと植えられていた紫陽花の、白をふくんだ薄紫の花びらが、目にチカチカと眩しかった。

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 ある筋から情報を得て、私たちは、由佳の祖父が迎えに来る時間を知っていた。もっぱら先方の父親、由佳からすると祖父が、保育園の送迎を担当していることも聞いていた。だから、その三十分前を狙ったのである。バッティングしたらそれでアウトだし、早すぎても保育園から怪しまれる。
 実は、今日のこのために、母親は一度保育園を訪れ、由佳に会っていた。突然の訪問だったが、怪しまれないように何かと理由をつけ、自然に面通しをしておいたのである。短期間とはいえいっしょに過ごしたこともあるし、由佳は私の母親にとても馴染んでいた。このことで、由佳のもう一人の祖母であるという園からの信頼を得た。すぐに先方の祖父母は、そのことを知ったようだが、特に問題視しなかった。世間の体裁を重んじたか、両家が争っているということを、表ざたにしたくなかったようである。
 この日、私の役割はもっぱら運転手。父親は助手席に座り、土気色の顔で唇を震わせている。主たる役割は、結局、最初から最後まで、すべて母親が担った。
 その母親が、意を決して車のドアを開けると、保育園の通用門から入って行った。門から園の中はよく見えない構造になっていて、私と父親は、ただ待つことしか出来ない。
「こんにちは。この前お邪魔した、由佳の母方の祖母です」
「あら、この前、来はった、名古屋のおばあちゃん!」
「はい、そうです。実は、由佳のおじいちゃんが、今日迎えに来れなくなって、代わりにお迎えに来たんですぅ」
「あれ、そやったんですか。由佳ちゃん、よかったねえ、今日はおばあちゃんがお迎えよ」
 とまあ、そんな会話がなされたのだろう。由佳はといえば、おばあちゃんに抱かれて、上機嫌だ。園の職員も見知っている顔だし、安心してしまったのだろう。
 途中まで職員に見送られたようだが、門を出てからは、二歳の孫を抱いたおばあちゃんとは思えないスピードで車に近づくと、「早く、早く車を出して!」と、震えながらも、サスペンス劇場ばりのセリフを吐いたことは、今でもよく覚えている。私もまた、二歳の子どもを乗せているとは思えない荒っぽさで、これもさながらサスペンス劇場のように、ワゴン車を急発進させた。サスペンスになり切れない可愛そうな大学教授だけが、土気色の顔をさらに昏くして、震えながら、それでも由佳を獲得した悦びと不安のない混じった表情で、孫娘の小さな手を握りしめていた。
 すべて後から知ったことだが、この直後、保育園は大変な騒ぎになったらしい。先方の家に確認の電話を入れた職員は、あまりのことに、顔面蒼白になったことだろう。警察も呼ばれた。保育園に、祖父母が怒鳴り込むように入って来る。特に亡き夫の母親は、ものすごい形相で、職員や園長に食らいついたに違いない。担当の職員や園長には、本当に申し訳なかったと思っている。
 だが、結局、私たちが一番恐れていた警察沙汰にはならなかった。向うはそれを望んで、すぐにでも由佳を取り戻したがったが、内輪の問題ということで処理された。
 こうして、裁判が結審するまで、由佳は私の両親と、二か月余りを過ごすことになった。しかし、たったの二か月である。その後、今日までの約二十年間を、先方の親権のもと、箕面市の家で、由佳は成長していくことになる。私たちが顔を合わせることは、結審以降、いっさいなくなった。先方の母親が強い意志で拒否したからである。
 それは、「この子には、母親はいないものと言い聞かせて育てます」というほど、強固な拒絶だった。母親がいないということは、姉の弟である私も、私の両親も、由佳にとっては、この世に存在しないのである。当初、まさかそんなことはしないだろうし、出来ないだろうと思っていた。だが、この母上様は、それを本当に実践した。本当に、由佳の記憶から、由佳の母親とその家族を抹消していったのである。

 私は、今回の文章を書いていて再確認したのだが、この二十年間最も謎だったのが、この先方の母親の心情だった。もちろん、保育園から無断で連れ出したのだから、怒り心頭に達するのも理解できる。だが、そこまで追い込んだのは、もとよりこの母親の頑とした拒否の態度ではないか。
 震災後出版された姉の絵本は、「震災で亡くなった母親が残した娘へのメッセージ」としてマスコミに何度も取り上げられ、由佳のところにも取材の申し込みが数回来たらしい。しかし、それらのすべてを、この母上は断っている。
 魚崎の倒壊現場跡にキリスト教系の老人ホームが建ち、その場で亡くなった人がいるということで、夫婦の名前が刻まれた小さな石碑が置かれた。ホームの好意で、いつでも私たちは、そこに花を手向けお参りすることが出来た。しかし、この母上は、一度も由佳を連れてここに来ることがないという。これらはすべて、由佳には母親がいない、ということを徹底するためだった。もちろん、箕面の実家に送った姉の絵本は、由佳が読むこともなく、廃棄されたに違いない。
 実は、姉の結婚前、夫の「俺が、俺の母ちゃんから、お前を守るさかいな」という言葉からすでにその兆候はあった。結婚前と、この孫娘をめぐるゴタゴタのときに、そのことは話題になった。とにかくすごい母上だと。
 亡き夫が生前私たちに語ったのは、断片的だったが、次のようなものだった。
 夫の高校時代から、それは夫の弟が中学生の頃になるが、その頃から長期間、家を不在にすることが多くなったということ。それは、もともと山歩きが趣味だった母上が、ふとしたことで俳人山口誓子の門下生になり、俳句の吟行山歩きと称して、全国各地の山々に出かけていたそうである。
 東京の出版社から句集も出していた。震災前に二冊。これは、箕面市の自宅で、震災後に見せてもらったことがある。調べてみると、2004年にも一冊上梓していた。
 業だ。亡き夫から話を聞いたときも、そう思ったが、震災後も、由佳を手元に置きながら、二歳の孫娘を育てながら、吟行山歩きは続けていたのである。
 業だ。業を抱えて、この人は生きている。そんなふうに、思えてきた。



続く





 
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神戸 1995.1.17 第6回

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 それは突然にきた。「由佳はウチの子です、絶対に渡しません!」という先方、亡き夫の母親の宣戦布告だった。
 突然と思ったのはこちらだけで、あちらとしてみれば、絶妙のタイミングで言い放ったのか、たまりにたまった感情が爆発したのか。そんなことさえ、我々には計り知れないほど、ノーテンキに楽観していた。「由佳はこちらで引き取ります」との提案に、「良いですよ、そうしましょう」といったんは答えた先方の言葉を、バカ正直にうのみにしていた。
 葬儀後、両親は由佳を連れて名古屋の実家に帰ったのだが、数週間たって、「もう少しいっしょにいたい」という先方の希望もあり、再度箕面市の家に連れて行った。しばらくしたら名古屋に返すという話で両親は納得し、由佳を置いて名古屋に戻る。それからしばらくして、先のセリフ「由佳はウチの子です、絶対に渡しません!」が出たのである。両親にしてみれば、それはまさに青天の霹靂で、母親は高校教師を辞める決意をし、息子と娘が出て行ったマンションを、これから二歳の孫娘が生活すべく改造している矢先のことだったのである。
 このときから、特に先方の母親の態度が一気に硬化した。硬化どころではない。人から鬼に変化したかと思われるほど、ものすごい形相で私たちに対した。
 ちなみに言うと、私は「鬼」という言葉を、このような文脈で使うことに反対である。それは、3・11以降、東北について学ぶことでさらに強まった。「鬼」とは、ヤマトの支配に抵抗し続けた原住民の、ヤマトの側からの想像力が生み出したある種の幻想だ。
 このときから先方の母親は、電話でも「ダメです。由佳はウチの子ですから」とぴしゃり言い放ち、一方的に切ってしまうし、箕面市まで会いに行けば、それこそ鬼の形相で門前払いを食らわせた。私も両親に付いていったが、あの顔で断固として追い払われては、なす術はなかった。
 それは、まさに子どもの頃から絵本などで見てきた「鬼」の顔であった。いや、絵本の鬼の方が、まだぜんぜんコミカルで、哀愁さえ帯びて見える。それに比べると、一度決めたらテコでも動かない、拒絶と排除の意志がはっきりと見て取れた。キッと睨みつけたまま、冷たい鉄仮面のように固まった表情を見て、息子と娘の違いはあれ、同じように腹を痛めた我が子を亡くした私の母親は、何を思ったのだろうか。
 先方の父親は、近江商人に出自を持つことが自慢の生粋の関西人だが、たいていは恐妻の意見に従うというタイプの夫だった。とはいえ、それは私の両親も同じなのだが、大学教員と高校教師VS実業の世界で生きて来た関西人と鬼の形相の母親では、最初から我が方に勝ち目はなかった。それなのに無謀にも勝負を挑んだのは、愛娘の「由佳を私の代りに育てて!」という遺志が、それとて幻想に違いなかったが、特に母親の脳裏から離れなかったからだろう。引っ越しをさせられなかった後悔が、父親にもあったのだろう。なんとしてでも由佳を引き取り、我が家で育てなければならない。その使命感が、先方の母親からの拒絶にあうたびに、少しずつ少しずつふくらみ始めた。


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 この年、1995年は、阪神淡路大震災の約二ヶ月後に、地下鉄サリン事件が起きている。オウム真理教をめぐる一連の騒動が始まったわけだが、同時にウィンドウズ95の登場やPHS電話サービスの開始など、社会状況が一気に変化していくメルクマールとなった年でもあった。バブルは過去のものとなり、長い不況の時代がやってきた。社会には、希望よりも、漠然とした不安が徐々に広がりつつあった。その延長線上に、2015年の現在がある。
 しかし、そんな時代背景など目の片隅で眺めるだけで、両親と私は、由佳奪還のため血眼になっていた。とうとう母親は三月末で退職し、由佳を迎え入れる姿勢と意志をよりいっそう固めた。桜が咲き、やがて散って、五月のゴールデンウィークに入る頃、両家のいざこざは、とうとう裁判で決着をつけることになる。由佳に対する親権を、両家のどちらが得るのが妥当かを、家庭裁判所に判断してもらうわけだが、その申し立て手続きは、当然ながらこちらから始めた。そのことも、先方の逆鱗に触れたようである。先方は、ハナから「諦めろ!」という態度であって、その根拠は、あくまでも私の姉は嫁として先方の一族に嫁いだのであるから、その娘由佳も先方の一族に属するのは当然であって、裁判で争う必要がなぜにあろうか、というものだった。
 家父長的家族制度を盾にとって一歩も譲らない構えだったのが、ならばどうして最初に、「いいですよ、そうしましょう」などと言ったのか。こちらとて腑に落ちない。しかし、「あんな状況で言われても。むしろ非常識ではないのか」と返されたら、ぐうの音も出ないのだった。母親の早すぎた先制攻撃が、かえってアダになってしまった。確かに言われてみればその通りで、私とて「この状況で言うべき話じゃないだろう」と思ったのだから、あとから思えば、最初の一歩から間違っていたのだ。こうして両親と私は、少しずつ、追い込まれていく。
 最後の手段として両親は、信頼できるスジからの紹介で、このテの裁判にめっぽう強いというベテランの老弁護士を紹介してもらうことになる。そして、それが決定打となった。最初から、そう神戸商船大学で夫婦の遺体の前で放った言葉から、この弁護士を信用し過ぎたことまで、様々な手を打ってきたのだが、それらがことごとく裏目に出ていたのである。しかし、それがすべて判明したのは、由佳が向うの家族として法的にも正式に引き取られ、先方から絶縁を言い渡されたときなのだから、私たちはただただ、闇雲に使命感にとらわれジタバタしていただけなのであった。やはり、喜劇なのである。他人から見れば。しかし、この頃から、私の父親も母親も、悲壮感漂う表情で、それでもなんとか由佳を我が手に、と願うようになった。そして、最後に掴んだ藁が、事件を引き起こす。


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 その弁護士の家に、私も含めて三人で相談に行った。弁護士を紹介をしてくれたKさんも同席した。Kさんと同様、かなり高齢の弁護士だったと記憶する。来年還暦を迎える父親より、ひとまわりは上だろうか。だが、その分経験も積んでいるはずだと、私たちは希望的に解釈した。何よりKさんは、名古屋の国立大学の名誉教授で、両親がすっかり信用しきっていた人物であった。
 老弁護士の家は、古い平屋建ての日本家屋だった。法律家というより、作家か文学研究者の家のようだった。思わず、映画みたいに和服なんぞの着流しで、この屋の主である老弁護士が現れるかと思ったが、別にそんなこともなく、長く小学校の校長か郵便局長を務めて引退したかのような小柄な好々爺が、着古した濃紺の背広姿で我々の前に静かに座った。
 すでに詳細情報は得ているらしく、簡単な挨拶の後、つぶやくような名古屋弁で老弁護士は言った。「状況は、キビしいですなあ。とにかく、お宅らあが、不利であるとゆうことは、否めませんなあ」と。その理由として、現代の家族制度では、両親が亡くなった場合、父側の親に親権が委ねられることが多いこと。震災から四か月ほどが経過し、約二週間を名古屋のマンションで過ごした以外は、先方の箕面市の父方の両親の家で暮らしていること。などをあげた。
 前者の理由はとうてい納得出来ないが、そんなものなのかという思いもあった。長男として大事大事で育った父親も、その長男である私も、先方の家の長男坊であった亡き夫の妻として、名字も変わってしまっている以上、やはり勝ち目はないのかという諦めが脳裏をよぎり始める。多少リベラルな面もある父親は、家父長的家族制度に反対の意見を持ってはいるが、子どもの頃からその制度の恩恵を少なからず受けてきたのもまた、事実なのであった。そしてそれは、私にも当てはまる。
 しかし、後者の理由が当初、よくわからなかった。老弁護士は、時間が大事なのだと言う。孫娘と過ごした時間の長さが。「あんたがたは、葬儀後、二週間だけ、いっしょにおられたぁちゅうことですわな。ほんだでそれを、ちょこっとでも、なごうすりゃええ、ちゅうこってすわ」と、これまた意味不明なことを言う。
 由佳はもう、長いことあちらの家に幽閉されているようなもので、私たちは会うことはおろか、電話口にさえ、出させてもらえないのだ。「どういうことですか?」というこちらの質問に、「もしかぁすると、そうゆうのんが分かっとって、孫娘さんをちょこっとでも長く、家にとどめておきゃあええ、思うとるのかも、知れませんな」と、もっと意味不明なことを言い出した。「どうすれば、良いのですか?」と聞くと、「それは……。なんとも、答えられんでかんわ」と、不意に立ち上がり、ここまで言っても分からんのかと、そのとき初めて老獪な表情をちらりと見せ、隣室へと消えてしまった。
 このとき、Kさんも老弁護士の後を追って、隣室へと消えた。私たちは、キツネに抓まれたような表情で、二人が戻って来るのを待っていたと思う。正直、何が言いたいのか、さっぱり見当がつかなかった。
 十分ほど経って、Kさんだけが戻ってくると、我々の前に座り直して、重々しく口火を切った。「その……、私としても、言いにくいことなんですが……」でいったん言葉を飲み込み、目の前の冷たくなったお茶でも飲み干したかどうかまで、正直覚えていないが、そんな空気が流れていたのは確かだ。「とにかく、先生(老弁護士のこと。この場面、おかしいことに、私以外全員が『先生』であった)は、孫娘さんとなるべく、いっしょに過ごす時間を、増やさにゃあアカン、そう言われるんですわ」と、Kさんも、タジタジになっていた。名誉教授の私に、そこまで言わせんと、分からんのきゃあも……。という面持ちで、黙って座椅子に背をもたせかけ、Kさんは天井を仰いだ。
 つまりこういうことらしいのである。今回の裁判は、総合的に考えて、また前例から見ても、勝てる見込みが薄い。このままいけば、親権はあちらの両親に移るだろう。もし、少しでも勝てる要素を増やすとするならば、なんとかして、孫娘を名古屋のマンションに連れて来なさい。そして、いっしょに過ごし生活する時間をなるべく長くしなさい。それが、既成事実として残ります。とまあ、老弁護士の主張は以上のようなものであった。
 もちろん、老弁護士は、箕面市の両親が由佳に会わそうとしないことも、電話さえ拒否していることも知っているのであって、それでも上記のような既成事実を作るとなれば、もはや強制的に奪還するしか手立てはないことも、承知の上で言っているのである。しかし、それは法的にもギリギリの選択であって、老弁護士がそれを直接指示するわけにはいかない。名誉教授であるKさんとて同じである。で、老弁護士は隣室に消え、Kさんは、ごにょごにょと、名古屋弁で口ごもってるのであった。こういうときの名古屋弁は非常に便利で、「んだで、分かったってちょ……」などと、うってつけの曖昧表現がいくらでもあった。
 しかし、残る二人の「先生」、ひとりは退職して「元先生」だったが、とにかく世事にこなれない両親二人には、まだよく事態が呑みこめていないようだった。ようやく私がピンときて、「つまり、由佳を誘拐せよ、ということですね」と発した言葉に、両親の顔が青ざめた。なんと! それは、犯罪ではないか……。
「そーんなこと、言っとらせんて」と、慌ててKさんは否定したが、「誘拐」と発した言葉を否定しただけで、行為としては同じことを示唆しているのであった。それしか、この裁判に勝てる見込みはない、と。亡くなった愛娘の遺志を継ぐ方法は、それしか残されていない、と。
 ようやく事態を察した父親と母親が、私は次の言葉を聞いてのけぞるほど驚いたのだが、青ざめた顔のまま、「分かりました、やります」と、重い決意を表明した。「それしかないのなら、やります」と。
 
 この何日か後に、私たち三人は京都で落ち合い、箕面市に車で向かうのである。
 横浜から、この年何度目の新幹線だったろうか。両親は名古屋からワゴン車でやって来た。確か京都駅の八条側、新都ホテルのロビーで待ち合わせたはずだ。場所は正確には覚えていないが、父親の、青ざめてほとんど土気色に変わってしまった顔だけは、今でも忘れられない。それに比べると、母親、つまり女の方が度胸が据わっているのか、緊張した面持ちではあるものの、これから遂行する正義のミッションを前に、いささか高揚しているようにも見えた。
 しかし、いずれにしろ、私と違って超がつくほど真面目な、先生一筋の二人の人生に、このような場面が訪れようとは思いもしなかったのである。事前に電話で何度もやり取りした作戦を、車中で確認したりして気を紛らわせていたが、箕面市に近づくにつれて、極度の緊張からか、押し黙ってしまった。むべなるかな、である。だが、ハンドルを握る私に、「引き返そう」という言葉は、まったく浮かんでは来なかった。私もまた、同じように突き動かされていたのだ。
 そしてついに、私たちはその「現場」に到着した。
 それは、由佳が最近預けられることになった、民間の保育園だった。




続く


 
  

 




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神戸 1995.1.17 第5回

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 夫婦の遺児、二歳の娘は、近所のママ友が引き取り、その人の実家である六甲山のふもとの公営住宅に預けられていた。それが17日の午後のことで、そのことは18日に現場に到着した我々にも伝えられたが、その日に迎えに行くことは出来ず、19日になってようやく引き取りに行くことになった。
 その引き取り役は私が引き受けた。父親のワゴン車を運転し、母親といっしょに箕面市から向かったのだのだが、その時のことも、忘れがたい印象を残すことになる。
 まず、魚崎駅近くの倒壊現場に行き、ママ友のマンションを探した。驚いたことに、そのマンションは倒壊現場から徒歩1分くらいのごくごく近所で、少し外壁などに亀裂が入っていたが、なんの問題もなく建っていた。はぁ、建物の新旧で、ここまで運命が分かれるものなのかと、チャイムの音で玄関まで出て来てくれたママ友とその家族の元気な顔を見ながら、ため息の出る思いがしたものだ。私でさえそうなのだから、私の母親などはもっともっと強く、そう思ったに違いない。
 引っ越しさえかなっていたら、目の前のママ友の家族のように、たとえ家の中がぐちゃぐちゃになろうとも、生きて生活を続けることが出来たのだから。二歳の娘を膝に座らせながら、大好きな童話を、書き続けることが出来たのだから。愛する夫を、毎朝「行ってらっしゃい!」と、笑顔で送り出すことが出来たのだから。
 ママ友を助手席に乗せて案内を乞い、急流住吉川沿いを流れとは反対にぐんぐん登っていくような感じで車を走らせた。事実、阪神線、JR、阪急と線路を越えるたびに、標高があがっていくわけで、阪急の線路を越えて左に折れ、神戸大近くの高級住宅街に入ったとたん風景が一変したのには驚いた。
 電柱が倒れたりガレキが占領したりで走れない道も多い中、ここでもあみだくじのようにジグザグ走行となるのだが、阪急線より上の道に入ると、もはや被災地ではないのだった。いや、家具が倒れたり水道が止まったり、外から見ただけでは分からない被害もあったのだろうが、一見すると何ごともなかったかのような日常の平穏な住宅街が広がっていた。災害格差。そんな言葉があるのかどうか知らないが、建物の新旧と住んでいる土地、つまり時間と空間の違いで、生死を分かつほどの差異が、目に見えてハッキリと生じることもこのとき知った。
 
 二歳の遺児とは、六甲山へと登る六甲ケーブル駅近くの公営住宅で再会した。エレベーターもない5階建ての古めかしい団地で、仮にこれが東灘区に建っていたら無事では済まなかっただろう。標高の高い山腹にあったからこそ、おそらく昭和30年代の建物だったはずだが、ほぼ無傷で建っていた。
 かさねがさねイヤらしい感想だが、そう思わずにはいられなかった。母親もまた、そうだっただろう。そして自責の念が生じる。後悔は先に立たないが、ならばその悔いを帳消しにする行動を取るしかない。それは、我が娘の遺した由佳を、我が手で育て上げること。母親とて、後悔と悲しみを乗り越えるには、その使命感にすがる以外になかったのかもしれない。
 由佳は、二晩面倒を見てくれたママ友の母親によると、少し寝ては大泣きし、寝ては大泣きすることの繰り返しだったそうだ。いきなり家が崩れ落ち、小さな空間で身を縮めながら、父も母もだんだんと冷たくなっていく冬の寒い朝を迎えてから、まだ2日しか経っていないのだ。この小さな幼い心に、いったいどんな傷が残されてしまったのか。私と母親は、帰りの車の中、母親に抱かれながらようやく眠りに落ちた由佳を見ながら、そのことを心の中で反芻するのだが、どんなに考えてみても、それは私たちの想像の範疇を越えていた。それだけに、母親も、箕面市の夫の実家で由佳と再会した私の父親も、不憫な孫をその手に抱いて涙した。
 そして、涙とともに、決心するのである。こうして、このときから、あの「事件」に向って、我々の時間はまっしぐらに突き進んでいく。そして、最悪の結果を導いてしまうのだが、スポーツゲームの敗北を後から分析してある程度は納得できる論を立てることが出来るようには、私たち一家の敗北は説明できない。なぜそうなってしまったのか、さっぱりわけがわからないのである。
 まったくもって愚かである。死者に申し訳が立たない。それは勝者の側の家族もそう思っているはずだった。夫婦そろって亡くなった以上、一人娘を両家が同様に愛情を注いで育てるのがベストな選択であることは、誰にでも分かる。それがそうならなかった。ならなかった以上、勝者であっても、我々と同じような死者に対する申し訳なさがあってもよかった。事実、向うの家族には、そう見受けられる言動もあるにはあったのだ。ただ一人の重要なプレーヤーをのぞいては。


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 こうして、その週末、通夜と葬儀を迎えることになる。私は、夫の実弟と、夫の友人たちと共に、遺体の前で酒を飲んで一晩を明かした。学生時代の夫の爆笑譚で大笑いしながら、棺の前で遺体をかき抱くようにして大粒の涙を流す男同士の友情に、感動さえした。同時に、こんな良い好男子と、なぜもう少し長く結婚生活を過ごさせてくれなかったのかと、姉の不運を恨んだ。
 忘れられないのは、実は通夜でも葬儀でもなかった。葬儀が終わり、焼き場に向かう直前、参列の人々に別れの挨拶をする場面がある。棺を乗せた二台の車の前に遺族が立って、大勢の参列者に喪主がマイクで謝辞を述べたあと、あのいかにもな感じで葬儀業者の「それではみなさま、お別れでございます」などというアナウンスが入る。それでいっせいに皆が泣き出すのだが、若い二人との永遠の別れということで、その時は本当に大勢の人々のすすり泣く声が、冬の晴れた空に届けと言わんばかりに響いた。
 私は、車の前で写真を掲げ立たされていたからか、その時はそれほどの悲しみを覚えなかった。棺と同じ車に乗り込み、焼き場に着いて、窯の前で担当者の淡々とした説明を受けながら、棺が、つまり姉の遺体が、姉の身体が、ごうごうと燃える窯の中に消えていこうとしたときだった。それれは突然、腹の中からこみ上げるようにして私を襲った。
 これでほんとうに姉と別れる。永遠に会えない。それは、18日に遺体と対面した時に感じたはずなのだが、そうではなかった。たとえ冷たくなっていようとも、もはや動くことも話すこともなかったとしても、姉の身体がそこにある限り、永遠の別れではなかったのだ。
 疲れていたからだろうか。二日連続の徹夜に続き、寝不足の中で、あちこち飛び回った。通夜では痛飲し、ほとんど寝ないで葬儀を迎えた。私の精神は、極度に張りつめていたのかもしれない。だが、今もって私は、あのとき、姉の肉体が失われてしまうことが、ほとんど自分の身体がえぐり取られるような痛みと悲しみとして私を襲ったことを、忘れることができない。私は、棺が窯にすべるように吸い込まれるまで、我を忘れて泣きじゃくった。できれば止めたかった。淡々と作業を遂行する担当者の手をつかまえ、ちょっと待ってくれと言いたかった。
 別段、姉が容姿の美しい女性だったわけではない。幼少の頃から、べたべたと姉に甘えたこともあまりない。姉の匂いとか、髪の手触りとか、ほとんど覚えていない。なのにどうしてだろう。不思議だった。
 少し後になって、それは時間だと思うようになる。姉と共有したたくさんの時間。姉としか共有していない、幼い頃の思い出。それが、姉の肉体の消滅と共に、永遠に失われるのだ。
 姉が生きている限り、私たちの共有フォルダから記憶を引っ張り出し、ひとつひとつのファイルを開いて凍結していた時間を温めなおし、確認しあう作業が可能になる。それがもはやかなわなくなった。一人っ子はみなそうなのかもしれないが、私はずっと長い間、他人と、特に女性と時間を共有することで、孤独からの逃避行を繰り返してきたことに気が付いた。
 ずっと姉が抱えていた「孤独」が、このとき初めて、私の中に芽生えた。
 と同時に、横浜に戻り大学に通いながら、マックス・ウェーバーやマルクス、大塚久雄や内田義彦を読む以上の熱心さで、高橋和巳や太宰治の小説をむさぼるようになる。『プロ倫』から『憂鬱なる党派』へ。『資本論の世界』から『人間失格』へ。
 遅れてやってきた文学青年は、滑稽なだけの存在だったはずだが、当の本人にその自覚が生まれるのはまだまだ先の話で、無自覚な滑稽さは、喜劇ではなく悲劇だ。私はそれを、まったく文脈は違ったものの映画のセリフで聞いたとき、背筋が凍るほど愕然とした。それは自分のこととして言われている言葉に聞こえたのだった。
「This is not a comedy,but a tragedy.(喜劇なんかじゃない、悲劇だよ)」
 デイビッド・ヘルフゴットというピアニストの生涯を題材にした映画『シャイン』のラストにちかいシーンでのセリフだった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番が、効果的に使われていた。私には印象深い映画だ。
 でも、こんな文章を書いているということは、それはまだ続いているわけで、もはや自分が演じているのが喜劇なのか悲劇なのか、これまたさっぱり自分では分からない。 
 私たち一家がこれから演じるドタバタコメディーは、当事者たちにとってみれば、間違いなく悲劇だ。だが、他人から見えればコメディー以外の何ものでもない。いよいよ次回、それを書くが、大いに笑ってもらって構わない。


続く



 


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